イギリスの地政学23:1891ローデシアの植民地化に着手
19世紀後半、アフリカの角(Horn of Africa) 周辺で列強の動きが活発になる一方、イギリスは南アフリカから徐々に北上を続けていた。今回は、ローデシアの植民地化を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。
1891年[US115]イギリスは、ポルトガルを排除し、ローデシア(現在のザンビア、ジンバブエにあたる地域)及び現在の)マラウイにあたる地域の植民地化に着手した。
Synmeが不勉強なので、ローデシアの植民地化について正確な年月日が分からないけれど、1891年[US115]頃からローデシア及びマラウイの植民地化が始まった。
ローデシア(Rhodesia)とは、Cecil John Rhodes(セシル・ローズ - Wikipedia、Cecil Rhodes - Wikipedia)の名前から名付けられたイギリスの植民地で、現在のザンビア共和国(ザンビア - Wikipedia、北ローデシア)およびジンバブエ共和国(ジンバブエ - Wikipedia、南ローデシア)にあたる地域を指した。
マラウイは、現在のマラウイ共和国(マラウイ - Wikipedia)であり、二ヤサランドと呼ばれた。
ローデシアのイギリスによる植民地化着手に関連する出来事を並べて行く。
まず、1889年[US113]10月29日イギリス南アフリカ会社(British South Africa Company - Wikipedia 、BSAC)がCecil John Rhodesによって設立された。この会社は、南部アフリカから中央アフリカ地域の植民地経営と経済的搾取を目的としていた。
次いで、1891年[US115]にイギリスはポルトガルと条約(Anglo-Portuguese Treaty of 1891 - Wikipedia)を締結し、ローデシア及び二ヤサランドからポルトガル軍を撤退させることに成功した。
ポルトガルは、現在のアンゴラ共和国(アンゴラ - Wikipedia)とモザンビーグ共和国(モザンビーク - Wikipedia)に植民地を有していたので、アフリカ大陸を横断して領植民地を繋げようと目論んでおり、イギリスの植民地政策と対立していたようだ。
文責:鵄士縦七