Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

イギリスの地政学26:1914.8.4ドイツに対する宣戦布告(第一次世界大戦勃発)

イギリスの地政学を学ぶ。今回はドイツに対する宣戦布告。最初に、クールにザックリまとめる。

1914年[US138]8月4日ドイツ第二帝国がベルギーに侵攻すると、ベルギー王の1839年ロンドン条約に基づく軍事援助要請に応じて、同日イギリスがドイツ第二帝国に対して宣戦布告した。

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ドイツ第二帝国は、ロシアに対して1914年[US138]8月1日宣戦布告し、8月2日にルクセンブルクを占領し、8月3日にフランスに対しても宣戦布告した。同8月3日ベルギーに最後通牒を発し、ドイツ軍のベルギー領通過を認めるように要求し、ベルギーから拒絶されている。

そして、翌8月4日ドイツ第二帝国はベルギーに侵攻した。ルクセンブルクと同様にフランスへの通路として、ベルギーを占領するためであった。

Albert王は、まずベルギー軍に命じて抗戦した。ドイツ第二帝国に比べればベルギー軍は非力ではあったが、普仏戦争(1870年[US094]7月19日〜1871年[US095]5月10日)で警戒を強めたベルギーはいち早く産業革命を成し遂げて得た経済力で軍の増強と近代化を怠っていなかった。加えて、Albert王は1839年ロンドン条約に則って、イギリスに軍事援助を求めた。この要請に従い、イギリスは同8月4日にドイツ第二帝国に対して宣戦布告した。

実は、1839年ロンドン条約(1839年[US063]4月19日、Cf.ロンドン条約 (1839年) - Wikipedia)とは、ベルギーの独立を認めないネーデルラント王国に対してベルギーが粘り強い国際外交を展開し、ベルギー独立革命(1830年[US054]10月4日)から9年かけて完全独立を勝ち取った条約であった。そして、プロイセン王国もイギリスも調印国であり、「ベルギーの独立」を承認していたのだ。

イギリスとフランスは英仏協商(1904年[US128]4月8日)を結んではいたものの、軍事同盟を締結してはいなかった。

Synmeが思うに、もしドイツ第二帝国がベルギーに侵攻せずに1839年ロンドン条約が「適用」される状況を自ら作出しなかったら、イギリス国内で議論が起こるなどして、これほど早いイギリスの対ドイツ宣戦布告はなされていなかったかもしれない。

ベルギー王が強い意思で抗戦を選択し、1839年ロンドン条約で定められた(ベルギーの独立を保護する)義務履行という「大義」によって、イギリスが即日に宣戦布告できたこと、はドイツのシュリーフェン・プラン - Wikipediaを序盤で狂わせるのに大いに役立った。

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World War I - Wikipedia

第一次世界大戦 - Wikipedia

第一次世界大戦の年表 - Wikipedia

 

文責:鵄士縦七