Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

イギリスの地政学25:1912.10.8-1913.5.30第1次バルカン戦争

1912年[US136]10月8日バルカン同盟(ブルガリア、セルビア、ギリシア、モンテネグロ)とオスマン帝国の間に第1次バルカン戦争が勃発した。バルカン同盟はオスマン帝国の欧州側領土の大半を占領して勝利し、1913年[US137]5月30日ロンドン条約を締結。オスマン帝国は被占領地域を割譲し、アルバニアの独立を承認した。

イギリスの地政学として、第1次バルカン戦争を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

イギリスは第1次バルカン戦争では中立を保った。外交上は、ロシアにトラキア領有を容認するスタンスを取りながら、ブルガリアによるトラキア獲得を後押しし領有権について優先させるとの保障を与えていた。

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イギリスのスタンスをまとめると以下のようになるようだ。

何枚舌外交なのかという話だが、外交にはこのような側面があるという厳然たる事実をニッポン人は学ばなければならない。そういった歴史的事実を踏まえた上で、ニッポンの外交方針を策定しなければならないとSynmeは思う。

  • イギリスはオスマン帝国を支援する立場であったが、第1次バルカン戦争からは距離を保っている。イギリスにとってのオスマン帝国はロシアに対する防波堤であり、ドイツ第二帝国に対する防波堤であるのだが…
    しかし、これにより英露協商(Anglo-Russian Convention、1907年[US131]8月31日)もオスマン帝国との関係も両立させているわけである
  • 一方で、ギリシアに対してはバルカン同盟への参加を勧めていた。イギリスは、ギリシアを通じて、ロシアが主導するバルカン同盟に影響力を保持しようと考えたのである
  • ロシアに対しては、トラキア(バルカン半島南東部、トラキア - Wikipedia)領有を容認するスタンスを取っていた。本心ではロシアによるトラキア領有など認めたくなかったことは自明であるが、ロシアがバルカン同盟という「駒」を使ってオスマン帝国の領土を奪う以上、英露協商がある以上は反対できないのであろう
  • 一方、ブルガリアに対して、トラキア獲得を後押しすること、獲得の暁にはロシアよりも優先させるとの保障を与えていた。ちゃっかりしている、と言うか

英露協商を締結する大局観(ドイツ第二帝国への対抗)と局地戦・個別外交交渉での狡猾さを両立させていることはイギリスの中枢部が一枚岩であることを間接的に証明しているとも言える 

 

文責:鵄士縦七