Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学58:1914.8.23ドイツに対する宣戦布告(第一次世界大戦勃発)

ニッポンの地政学を学ぶ。今回はドイツに対する宣戦布告。最初に、クールにザックリまとめる。

1914年[US138]8月4日イギリスがドイツ第二帝国に宣戦布告したが、日英同盟は適用されず同日ニッポンは中立を宣言した。しかし、ニッポンはドイツ第二帝国に対して8月15日最後通牒を発し、8月23日宣戦布告した。

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1905年[US129]8月12日イギリスはニッポンと第2次日英同盟を結び、対象地域にインドを追加すると同時に、本格的な軍事同盟に引き上げていた。

しかし、第2次日英同盟には自動参戦条項はなく、当該同盟の適用範囲はインドを西端としたアジア地域に限定されていた。

実際、8月1日にイギリスから日英同盟は適用されないと伝達があり、3日に覚書を受領、そしてニッポンは8月4日に中立を宣言したわけだ。

むしろイギリスも(参考までにアメリカも)、ニッポンがドイツ第二帝国に宣戦布告して第一次世界大戦に参戦することを望んでいなかった。ニッポンがドイツがアジアに保有する植民地を獲得することを懸念したのだ。オーストラリアとニュージーランドも懸念を表明していた。

実際、イギリスは、ニッポンに対し、「参戦しないままドイツの巡洋艦を攻撃してくれ」と要請してみたり、参戦の一時延期を要請したり、上記攻撃要請を撤回したり、ニッポンが参戦意思を固めるとニッポンの交戦範囲をチャイナ沿岸に限定しようとしたり、した様だ。

ニッポンの大隈重信首相と外務大臣加藤高明は、国益の観点から参戦を主張し、ドイツ第二帝国への宣戦布告を行い、参戦範囲を特に限定せずに参戦することを閣議決定した。大隈首相は8日に那須御用邸において大正天皇に上奏を行なった。

イギリスは最終的にニッポンの参戦を了解したが、「膠州湾租借地を中国へ返還させる目的で一時的に日本に交付せよ」との条件をドイツ第二帝国に対する最後通牒に記載し、大隈首相は「領土的野心はない」との言質をイギリスに与えた。

この様に、すったもんだの末に、ニッポンはドイツ第二帝国に対して8月15日最後通牒を発し、8月23日宣戦布告した。直接国防に関係のない「欧州大戦」への参戦に異論もあったため、異例とも言える1週間の回答期限を設けたそうだ。

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World War I - Wikipedia

第一次世界大戦下の日本 - Wikipedia

第一次世界大戦の年表 - Wikipedia

 

文責:鵄士縦七