ドイツの地政学04:1815ドイツ連邦の成立(1814-1815ウィーン会議)
ドイツ帝国すなわちプロイセン王国の地政学、今回はドイツ連邦の成立を学ぶ。ちなみに、日本語ではドイツ連邦と呼ぶことが多いが、ドイツ語でDeutscher Bund、国家連合であった実態に鑑みてもドイツ同盟ないしドイツ連合と呼ぶ方が正確な様だ。最初にクールにザックリまとめる。
ウィーン会議を経て、1815年[US039]ドイツ連邦が成立した。オーストリアが連邦議会議長を務め、プロイセン王国など39の領邦が同盟を構成した。
ドイツ連邦(1815年[US039]6月8日〜1866年[US090]8月23日)は、ライン同盟解体(1813年[US037]10月19日)の後、ウィーン会議(1814年[US038]9月1日〜1815年[US039]6月9日)を経て1815年6月8日に成立した。オーストリアが連邦議会議長を務め、プロイセン王国など39の領邦が同盟を構成した。
旧神聖ローマ帝国の領域を範囲としたため、オーストリアおよびプロイセンの領土は連邦の内と外にまたがっていた。
ドイツ連邦(ドイツ同盟)の範囲とプロイセン王国、オーストリア帝国の領土
神聖ローマ皇帝の代わりにフランクフルトに連邦議会が常設され、連邦議会の議員は諸邦の普通選挙で選ばれた官吏、大学教員等の市民階級の代表が務めた。プロイセンのビスマルクもその一人だったそうだ。
Napoléon Bonaparteに負け続けたオーストリアは盟主の座を取り戻したが、あくまで連邦議会議長に留まり、 ドイツ連邦(ドイツ同盟)は国家連合に過ぎなかった。プロイセン王国の地政学という観点からは、ドイツ解放の立役者としてドイツ統一の主導権を如何にして握るかという視点が重要となって行く。
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念のため、ウィーン会議でのオーストリアとプロイセンの戦果を復習しておこう。
- オーストリア:ドイツ連邦を成立させ、その盟主となった。イタリア北部のロンバルディアと旧ヴェネツィア共和国領を獲得、オーストリア皇帝が王を兼ねるロンバルド=ヴェネト王国(1815年[US039]6月9日〜1866年[US090]10月12日)とした。しかし、ネーデルラント、ポーランドなどの所領を放棄しなければならなかった。
- プロイセン:ザクセン王国の北半分、ワルシャワ公国の一部、ラインラント、旧ルクセンブルク公領の一部、オラニエ=ナッサウ家のドイツ内の所領などを獲得。また、スウェーデンから西ポンメルンを獲得。東西に領土を拡大した。
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ライン同盟はドイツ語でRheinbund、フランス語だとConfédération du Rhin。ドイツ連邦もドイツ語でDeutscher Bund。ドイツ連邦は、あくまでも複数の主権国家の連合体、つまり国家連合(Staatenbund)であり、連邦国家(Bundesstaat、英語で言うとFederation、2つ以上の国(州)が1つの主権の下に結合して形成する国家形態)でない。つまり、オーストリアは連邦議会議長に過ぎない。従って、ドイツ同盟ないしドイツ連合と呼んだ方が正しい様だ。
ちなみに、現在のドイツ連邦共和国はドイツ語でBundesrepublik Deutschland、英語でFederal Republic of Germany。言うまでもなく、現在のドイツに主権は1つである。
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ウィーン会議(1814年[US038]〜1815年[US039])は遅々として進まなかったが、Napoléonのエルバ島脱出と復位の報に接して妥協が成立した。オーストリアはドイツ連邦の盟主となりロンバルド=ヴェネト王国の国王となった。ロシアは、フィンランド大公国とポーランド立憲王国を承認させ、オスマン帝国からベッサラビアを獲得。プロイセンはラインラントを含め東西に領土を拡大。イギリスは、フランスからマルタ島を、オランダからセイロン島とケープ植民地を獲得、何より制海権を確立させた。スウェーデンはデンマークからノルウェーを獲得してスウェーデン=ノルウェー連合王国となった。フランス復古王政はセネガルを植民地として承認された。その他、ネーデルラント王国が成立、サルデーニャ王国が領土拡大、ナポリ王国復古、スペイン王国復古、スイス連邦は永世中立国として承認された。
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ロシアは第六次対仏大同盟でフランスに勝利。ウィーン会議で、かつてのワルシャワ公国の大部分にあたる地域をロシアの自治領として独立(ポーランド立憲王国(〜1867年[US091]))させた。
文責:鵄士縦七