Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学27:1878-1881第2次アングロ・アフガン戦争

ひきつづきロシアの地政学を学ぶ。今回は第2次アングロ・アフガン戦争。The Great Game第1期(1813年[US037]〜1907年[US131])の第2ラウンドである。最初に、クールにザックリまとめる。

1878年[US102]イギリス領インド帝国アフガニスタン首長国に対して再び宣戦布告し第2次アングロ・アフガン戦争勃発。1881年[US105]イギリスはアフガニスタン保護国化することに成功し、撤退した。

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クリミア戦争(ロシア・トルコ戦争、1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)を戦い終わったロシアは地中海を目指すことは一旦中止せざるを得なかった。しかし南下政策は継続し、インド洋を目指して中央アジアで攻勢を続けていたようだ。

具体的には、ロシアは1868年にブハラ・アミール国を占領・保護国化し、1873年にヒヴァ・ハン国を占領・保護国化。そして、1876年にはコーカンド・ハン国を占領・保護国化していた。

なお、ロシアは1878年には1877-1878ロシア・トルコ戦争(1877年[US101]4月24日〜1878年[US102]3月3日)で大勝利を収めている。

一方のイギリスは、1858年8月2日にイギリス東インド会社を解散させてイギリス領インド帝国を成立させていた。そして、1877年1月1日にはイギリス国王(当時はヴィクトリア女王)がインド皇帝を兼任するようになっていた。

さて、ロシアにアフガニスタン保護国化されることを恐れたイギリスはアフガニスタン首長国に宣戦布告。1878年11月21日に戦端を開いた。

1880年9月1日イギリスは最後の戦闘に勝利。翌1881年まで軍の駐留を続け、イギリスに外交権を委ねることを約させてアフガニスタン首長国保護国化することに成功した。イギリス領インド帝国にロシアの保護国が隣接する事態を防ぐことに成功したということだ。

第2次アングロ・アフガン戦争(1878年[US102]11月21日〜1881年[US105])の場合、ロシアが北から迫っている状況でイギリスの歓心を買えなかったために保護国化されてしまったわけだ。アフガニスタンとしては、イギリスとロシアのどちらにつくか態度を鮮明にしない限り、どちらからも侵攻・占領される状況だったわけだ。Synmeが思うに、外交を上手くやらない限り、自国の意図と関係なく戦争に巻き込まれるケースは少なくないのだ。外交は重要だ。

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文責:鵄士縦七