Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの開国28:1863薩英戦争(まえんはまいっさ、黒船7隻)

ニッポンの開国このあたりから攘夷そして大政奉還への流れをいっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編で学ぶ。今回は薩英戦争、というよりまえんはまいっさ(前の浜戦)と呼びたい。最初に事実だけ。

1863年[US087]8月イギリス艦隊7隻と薩摩藩が戦い、イギリスは大破1隻・中破2隻、死傷者63人という損害を受けて戦闘を中止して横浜へと帰った。

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1863年[US087]8月11日イギリス艦隊7隻が、イギリス人4名のうち3名が死傷(死者1名、負傷者2名)した生麦事件1862年[US086]9月14日)の犯人の逮捕・処罰等を求めて鹿児島湾に来航した。

交渉材料とするために薩摩藩の汽船3隻を掠奪したことで、薩摩藩の砲台とイギリス艦隊の間で戦闘が開始された。ちなみに、このイギリス艦隊は江戸幕府から10万ポンドの賠償金は既に受け取っていたそうだ。

地元ではまえんはまいっさ(前の浜戦)と呼ばれる薩英戦争(1863年[US087]8月15日〜8月17日)は、イギリス艦隊が大破1隻・中破2隻、死傷者63人という損害を出して戦闘を中止して横浜に引き上げている。

少し話が飛躍するけれども、イギリスはアメリカ独立戦争(革命戦争、1775年[bUS001]4月19日〜1783年[US007]9月3日)以来、第1次ボーア戦争トランスヴァール戦争、1880年[US104]12月20日1881年3月23日)まで「負けなし」の無敵を誇っていた。局地戦でスケールも違うし、イギリスは既に賠償金をゲットしている後の話なので、直接の比較にはならないのだけれど、「薩摩隼人やるぢゃないか」とSynmeは思う。

後に和睦交渉が開かれ、イギリスからの軍艦購入を条件にイギリス人遺族の扶助料を出すこととなり、イギリスも軍艦購入の斡旋を承諾した。島津藩は2.5万ポンドを幕府から借用して支払ったが借りパク、生麦事件の加害者も「逃亡中」として処罰されず仕舞。でも、薩摩はイギリスとの友好関係を深めていくことになる。やっぱり「薩摩隼人やるぢゃないか」。

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文責:鵄士縦七