ニッポンの地政学02:1871日清修好条規
ニッポンの地政学を学ぶ。第1期グレートゲーム(The Great Game)終結までを学ぶために、国際社会に復帰したニッポンの地政学を学ぶ必要があるためだ。今回は清との国交樹立を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。
李氏朝鮮との国交樹立が達成できないため、1871年[US095]ニッポンはまず李氏朝鮮の宗主国である清と日清修好条規を締結した。
あくまで不勉強なSynmeの印象だが、この条約締結も戦略性は感じられない。
なぜと言って、極東に進出して来ていたイギリス、ロシア、フランス、アメリカ等に対抗するための軍事同盟(より現実的には秘密軍事同盟)でもなければ、チャイナ市場の解放を主眼とする虎門寨追加条約や望厦条約の類でもないようなのである。
特に不利益を生じさせた条約締結であるとも感じないが、当時、ただ国交を樹立することに実質的な意義があったのだろうか... 更に言えば、ニッポンが清と組んだって、イギリス、ロシア、フランス、アメリカ等に対抗できるとは思えない。明治ニッポン政府はそのように考えなかったのだろうか?ただ、ここまで書いて気が付いたが、国交を樹立すること自体は必要だ。なぜなら漂着者が出る可能性があるからだ。ニッポン人が漂着した場合、国交があれば漂着者の保護を頼めるが、国交がないと漂着者を保護するためには(極端な話)軍隊を派遣するしかないわけだ...
Synmeの感想はさておき、日清修好条規の締結(1871年[US095]9月13日)に関する事実だけ確認しておく。
前回の繰り返しになるけれど、江戸幕府の鎖国体制において、ニッポンは李氏朝鮮および琉球王国とは正式な国交があり(通信国)、清およびオランダとは(正式な国交はなく)通商関係だけがあった(通商国)。
すなわち、日清修好条規は明治ニッポンが主体的に締結した初めての国交だったということになる。
内容は平等条約と言われているようだけれど、下記内容を相互に求める条項を含む独特の条約だったと言うべきであるようだ。
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1839年[US063]イギリスは阿片取り締まりに対抗して開戦。1842年[US066]清に勝利して南京条約で講和した。イギリスは1843年[US067]虎門寨追加条約を締結して香港島を獲得。清は広州、福州、廈門、寧波、上海の5港を開港させられた上、関税自主権を喪失、治外法権を認め、最恵国待遇を与えた。
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1844年[US068]イギリスについで、アメリカも清と望厦条約を締結。清は広州、福州、廈門、寧波、上海の5港を開港させられた上、関税自主権を喪失、治外法権を認め、最恵国待遇を与えた。
文責:鵄士縦七