Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学06:1874台湾出兵

ニッポンの地政学を学ぶ。第1期グレートゲーム(The Great Game)終結までを学ぶために、国際社会に復帰したニッポンの地政学を学ぶ必要があるためだ。今回は台湾出兵を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1874年[US098]ニッポンは初の海外派兵となる台湾出兵を行った。原因は台湾に漂着した宮古島島民(琉球王国民)54名の殺害事件であった。清や欧米列強への事前通告をせず、病死者500名超を出すと言う成功とは評しがたい派兵だったが、事後的に清が承認したことで、琉球王国のニッポン帰属が国際的に承認されることとなった。

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台湾出兵(1874年[US098]5月6日〜12月3日)は明治ニッポンの最初の海外派兵であった。

台湾と言う極東地政学において非常にセンシティブな地域への派兵にも関わらず、清にも欧米列強にも事前通告を行わずに実施された稚拙な派兵であったが、イギリスの斡旋等もあり事後的にニッポンと清の間で合意が形成された。

清は日本の台湾派兵を自国民保護の義挙と認め、(日清修好条規を締結していたにも関わらず漂着者を殺害されたことを背景として)ニッポンが生蕃(台湾の原住民である高砂族)に対する法治を求め、12月20日までのニッポン軍撤退を合意した。清は見舞金や諸費用をニッポンに支払うことにも同意した。

結果的には、琉球王国のニッポン帰属が国際的に承認される一助となった。

 

出兵の根拠は、1871年[US095]10月の琉球御用船の台湾漂着と乗員の拉致・殺害であった。ニッポンは清に対して賠償を求めたが、清は管轄外として拒絶した。加えて、1873年[US097]岡山県倉敷市の船が台湾に漂着した際に略奪を受ける事件も起こっていた。

また、明治ニッポンの外交戦略上のポイントは、遣韓論はあくまで無期限延期とされていたため、ロシアとの樺太問題が解決した暁には征韓論が再燃する恐れがある中で「ガス抜き」敵に台湾出兵が企図された側面があったことである。また、これに反対する木戸孝允桂小五郎)の下野も招いている。とにかく、外交戦略の不足となけなしの人材を無駄に下野させる内政のマズさが気になるところである。

 

文責:鵄士縦七