フランスの地政学26:1898.4.10広州湾(Fort-Bayard)租借
ひきつづきSynmeはチャイナ分割(瓜分)を学んでいく。今回はフランスによる広州湾(Fort-Bayard(バヤール要塞), Kwangchow Wan)の獲得を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。
フランス第三共和政は広州湾を占領し、1898年[US122]4月10日膠州湾を租借する取り決めを清と結んだ。租借条約は5月27日に締結され、租借期間は99年と定められた。
ドイツ、ロシア、イギリスに続いて、フランス第三共和政も広州湾を占領し、1898年[US122]4月10日広州湾を租借する取り決めを清と結んだ。
実際の租借条約は5月27日に締結され、租借期間は99年と定められた。
フランス第三共和政が他の欧州列強と異なるのは、フランス領インドシナ連邦があること。1887年[US111]10月17日カンボジアとベトナムを領土として成立したフランス領インドシナ連邦は、1899年[US123]4月15日にラオスを編入して完成することになる。そういうわけで広州湾もフランス領インドシナ連邦に組み込まれた。
Synmeが思うに、タイミング的にチャイナ北部における欧州列強の動きに乗じたものだと考える。チャイナ南部を他の欧州列強の好きにさせるわけにはいかないフランス第三共和制としては、陣取りゲーム的・椅子取りゲーム的に、いちはやくチャイナ南部の要衝に要塞を構えたいと考えたわけである。
そして、このフランス第三共和政の動きは、チャイナ南部の権益を巡り、ニッポンとイギリスの更なるリアクションを誘発することになる。
Kwangchow Wan was leased by China to France for 99 years, or until 1997 (as the British did in Hong Kong’s New Territories), according to the Treaty of 10 April 1898, on 27 May as the Territoire de Kouang-Tchéou-Wan. Their colony was described as "commercially unimportant but strategically located"; most of France's energies went into their administration of French Indochina, and their main concern in China was the protection of Roman Catholic missionaries, rather than the promotion of trade.[1] Kwangchow Wan was effectively placed under the authority of the French Resident Superior in Tonkin(itself under the Governor General of French Indochina, also in Hanoi); the French Resident was represented locally by Administrators.[4]
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Location of Kwangchow Wan in French Indochina
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1887年[US111]フランス第三共和政はカンボジアとベトナムを領土とするフランス領インドシナ連邦を成立させた。
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1899年[US123]フランス第三共和政はラオスを編入して、フランス領インドシナ連邦を完成させた。
文責:鵄士縦七