Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

アメリカの地政学39:1899.9.6門戸開放通牒を列強に送付

さて、いよいよアメリカがチャイナ分割(瓜分)に顔を出す、というか口だけ出す。今回は門戸開放通牒(Open Door Notes)の送付を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1899年[US123]9月6日アメリカはニッポンと欧州列強各国に対して門戸開放通牒(Open Door Notes)を送付し、チャイナ市場における各国の経済活動の機会均等を訴えた。

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米西戦争(1898年[US122]4月25日〜8月12日停戦、12月10日パリ条約)に勝利することにより、アメリカは急速にアジアにおける列強の仲間入りをした。具体的には、ハワイを併合し、パリ条約でグアム島を割譲し、フィリピンを購入して米比戦争で植民地化に着手していた。

言うまでもないことだが、このハワイ→グアム島→フィリピンという「理想的な」太平洋横断のステップストーンたる海外領土を獲得したアメリカにとって、次の最大の関心はチャイナ市場にあった。

しかし、チャイナ分割(瓜分)は既に第2ラウンド終盤であった。Synmeが勝手にラウンド数を書いているものだが、アヘン戦争(1839年[US063]9月4日〜1842年[US066]8月29日)以降が第1ラウンド、日清戦争(1894年[US118]7月25日〜1895年[US119]4月17日、馬関条約)以降が第2ラウンドと言っても良いだろうとSynmeは思う。

そして、イギリスがゴングを鳴らした第1ラウンドには望厦条約(1844年[US068]7月3日)を締結するなどしてアメリカも参加できていたが、ニッポンとロシア・ドイツ・フランスによってゴングが鳴らされた第2ラウンドには、南北戦争(1861年[US085]4月12日〜1865年[US089]4月9日)で一旦チャイナへの足掛かりを失っていたアメリカは全く参加できていなかった。

しかもハワイ、グアム島、フィリピンというステップストーンを獲得したアメリカであったが、フィリピンで米比戦争(1899年[US123]2月4日〜)が始まってしまっており、チャイナには注力できない。そこで、ひとまず「完全にチャイナ市場から締め出されないように」口だけ出すことにしたのだとSynmeは思う。

すなわち、1899年[US123]9月6日アメリカはイギリス、ドイツ、ロシア、フランス、ニッポン、イタリアに対して門戸開放通牒(Open Door Notes)を送付し、チャイナ市場における各国の経済活動の機会均等を訴えたのだ。
 

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1898年[US122]米西戦争勃発。アメリカはスペインに勝利し、同年調印されたパリ条約で、太平洋ではフィリピンとグアム島を獲得した。大西洋ではプエルトリコ を獲得しキューバを保護国とした。また、交戦状態停止後に、ハワイを併合した。 

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米西戦争が勃発すると、フィリピンでのスペインとの戦争のためのハワイ(真珠湾)の重要性が再認識された。アメリカは1898年[US122]8月12日にハワイを併合した。

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1898年[US122]12月10日米西戦争に勝利したアメリカはスペインとパリ条約を締結し、フィリピンとグアム島を割譲した。 

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1899年[US123]2月4日に米比戦争が勃発、1902年[US126]アメリカがフィリピン第一共和国に勝利し、フィリピンはアメリカの植民地となった。 

 

文責:鵄士縦七