Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学10:1876小笠原諸島領有

ニッポンの地政学を学ぶ。第1期グレートゲーム(The Great Game)終結までを学ぶために、国際社会に復帰したニッポンの地政学を学ぶ必要があるためだ。今回は小笠原諸島領有を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1876年[US100]明治ニッポンは小笠原諸島の領有をイギリス、アメリカに通告して承認された。 f:id:synme:20180917112640j:image

いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編から引用する。

小笠原には1830年から欧米人が移住、幕末にはアメリカ・イギリスが牽制しあった。幕府も1862年に移民を置いたが、まもなく引きあげた。1875年、現地人(欧米人)に回収を宣言し、翌1876年、内務省に管理させ、アメリカ・イギリスに領有を通告して承認された。

1876年当時、イギリスは香港島と九竜半島南部を獲得しており、既に小笠原にはこだわっていなかった。

逆に、アメリカは米西戦争まで約20年、ハワイもグアム島もフィリピンも獲得していなかった。まだインディアン戦争の最中であり、ニッポンは開国済みであったので、小笠原諸島の重要性は認識していなかった。

台湾出兵で一定の成果は挙げつつ清との間の琉球王国の帰属問題は継続しているものの、ロシアとの間の樺太・千島列島の国境画定問題は条約で解決を見たし、小笠原諸島の領有もイギリス及びアメリカと外交的に解決。素晴らしい外交的成果であるとSynmeは思う。

そして、明治ニッポンの外交的課題は李氏朝鮮を巡る清との対立に焦点を移して行くことになる。

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1856年[US080]イギリスはアロー号事件を口実にフランスと共同で開戦。1858年[US082]清に勝利して天津条約を締結するが清が批准を拒否。1860年[US084]イギリス・フランス連合軍は北京を占領して北京条約を締結。清は牛荘、登州、漢口、九江、鎮江、台南、淡水、汕頭、瓊州、南京、天津を開港させられた。イギリスは九竜半島南部を獲得した。 

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1898年[US122]米西戦争勃発。アメリカはスペインに勝利し、同年調印されたパリ条約で、太平洋ではフィリピンとグアム島を獲得した。大西洋ではプエルトリコを獲得しキューバ保護国とした。また、交戦状態停止後に、ハワイを併合した。  

 

文責:鵄士縦七