地政学を学ぶフレームワーク16
ようやくアメリカもチャイナ分割(瓜分)に顔を(口を)出したところで、日英同盟の締結(1902年[US126])そして日露戦争(1904年[US128])へと話を進めたいところである。
しかし、イギリスの地政学に関連するアフリカ分割だけ簡単に学んでおきたいとSynmeは考える。最初に、クールにザックリまとめる。
そもそもイギリスは、①ナポレオン戦争に勝利してウィーン会議でケープ植民地を獲得し、②③オスマントルコとエジプトの戦争に介入してエジプトに進出していた。また、1840年代には④ナタール植民地も成立していた。
19世紀末に、⑤フランスが造ったスエズ運河をまんまと我が物にすると、⑦エジプトを保護国化し、⑧エジプトとスーダンの戦争に介入してスーダンを共同統治とし、⑨ファショダ事件でフランスを排除することに成功して着々とアフリカ大陸を南下していった。一方、二度の⑥⑩ボーア戦争を経て、ボーア人国家に勝利して南アフリカの植民地化に成功した。
具体的には下記を学びたいが、既に学んだところもあるので、次回 6.イギリスのエジプト保護国化から簡単に個別に学んで行く。
- 1814年[US038]〜1815年[US039] ウィーン会議:オランダからケープ植民地獲得
※オランダは、1793年[US017]フランス革命軍に占領されて傀儡のバタヴィア共和国となり、Napoléonの皇帝即位に伴い1806年[US030]弟Louis Bonaparteを国王とするホラント王国に移行。後にフランス帝国の直轄領となっていた
フランスの地政学07:1814-1815ウィーン会議 - 1831年[US055]〜1833年[US057] 第1次トルコ・エジプト戦争に介入
Cf. ロシアの地政学21:1833ウンキャル・スケレッシ条約 - 1839年[US063]〜1840年[US064] 第2次トルコ・エジプト戦争に介入
Cf. ロシアの地政学22:1841ロンドン条約(五国海峡条約) - 1843年[US067]5月4日 ナタール植民地の成立
- 1875年[US099] イギリスがスエズ運河会社の筆頭株主になる
- 1880年[US104]12月20日〜1881年[US105]3月23日 第1次ボーア戦争(トランスヴァール戦争)
- 1882年[US106]7月〜9月 Anglo-Egyptian Wat:イギリスがエジプトを保護国化
イギリスの地政学08:1882ウラービー革命/イギリスによるエジプトの保護国化 - 1881年[US105]〜1899年[US123] Mahdist War:イギリスがエジプトと共同主権でスーダンを植民地化
イギリスの地政学09:1881-1899マフディー戦争 - 1898年[US122] ファショダ事件:フランスがイギリスに譲歩
イギリスの地政学10:1898ファショダ事件 - 1899年[US123]〜1902年[US126] 第2次ボーア戦争
Synmeが考えるポイントは、スエズ運河買収を機にアフリカ進出に成功して行くが、少しずつ苦しくなって来るイギリス植民地政策という点である。一方で、フランスとは衝突と融和というプロセスの起点となった。
これが日英同盟締結すなわち栄光ある孤立(Splendid Isolation)の終焉ひいては第1期グレートゲーム(The Great Game)終結へとつながって行く。そして、ニッポンにとって最大の意義はイギリス外交にこのような変化が生じていたことが日英同盟締結ひいては日露戦争につながって行ったということである。
synme.hatenablog.com1875年[US099]エジプトからスエズ運河会社株式の44%を400万ポンドで取得し、イギリスはスエズ運河会社の筆頭株主になった。
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1880年[US104]南アフリカにおいてイギリスがトランスヴァール共和国を併合しようとするも敗北。1881年[US105]プレトリア協定を締結し、イギリスは改めてトランスヴァール共和国の独立を承認せざるを得なかった。
文責:鵄士縦七