チベットの歴史01:1912.12清国軍守備隊の撤退
初めてになるが、チベットの歴史を学ぶ。辛亥革命の影響としては、ニッポン、モンゴル、チベット、そしてGreat Gameの経緯からロシア及びイギリスが関わっている。今回は清国軍守備隊の撤退。最初にクールにザックリまとめる。
辛亥革命で中華民国が誕生したもののチベットでの軍政を維持しようとした。しかし、1912年[US136]12月チベット軍は清国軍守備隊を追い払うことに成功した。
辛亥革命(1911年[US135]10月10日〜1912年[US136]2月12日)の勃発により、当然ながらチベット民族も影響を受ける。
チベットはチャイナ(漢民族;清国、中華民国)からの独立を目指し、中華民国はそれを認めたくなく、イギリスはロシアへの対抗上チベットを影響下に置いておきたいが積極的にチベットの独立を支援するわけでもない、という国際的な外交上の駆け引きが繰り広げられた。
ただし、まずは20世紀に入って以降のチベットの歴史を簡単に学ばないといけない。
- 1903年[US127]12月〜1904年[US128]9月 イギリスのチベット侵略(イギリスの勝利)
- 1904年[US128]9月7日 イギリスとチベット政府の間でラサ条約締結。チベット政府は内政・外交権をイギリスに委譲
- 1910年[US134] 清のチベット侵略(清の勝利、清国軍守備隊が駐留)
- 1911年[US135]10月10日〜1912年[US136]2月12日 辛亥革命
- 1912年[US136]2月12日 清の滅亡
さて、すでに学んだ通り、清の滅亡すなわち中華民国の成立後も孫文(Sun Yat-sen)と袁世凱(Yuzan Shikai)の政争が続いた。チベットやモンゴルに関しては、袁世凱(Yuzan Shikai)は中華民国(すなわちチャイナの、漢民族の)領土だと言う立場を採った。
そこで、チベット軍は反乱を起こし、成功裏に駐留していた清国軍守備隊を撤退させたわけである。
ちなみに、清のチベット侵略に際しても、チベット軍の反乱に際しても、イギリスもロシアも静観していたようである。
Synmeが思うに、欧米列強の外交の上手いところは、こういった静観と積極的行動(侵略・侵攻あるいは大義を掲げる救援・協力的派兵)を使い分けるところである。そして、その際の判断基準は「自国の利益に最も適う外交上のアクションは何か?」であるように見受けられる。現代ニッポンの外交に大きく不足している観点だ。
この判断基準の大きなメリットは、第三国(多くの場合、その時代ごとの派遣国も否応なく含まれる)が理解・共感・協力しやすいと言う点であるとSynmeは考える。
とかくニッポン人は、「自国の利益」を理論的・客観的・合理的に論じることを嫌うけれど、こと外交においては常に非ニッポン人が相手であるわけなので、きっちり「自国の利益」を合意形成・主張すべきである。これはもちろんナショナリズムを賞賛しているわけではなく、以下に引用した小説(五分後の世界 (幻冬舎文庫))の一節にある「世界中が理解できる方法と言語と表現」にはそう言う観点が必要だと言うことだ。
もっとも重要なのは、生きのびていくこと、生存そのものです。
(中略)
生きのびていくために必要なものは、食料と空気と水と武器、そういうものだけではありません。勇気と、プライドが必要です。
(中略)
敵にもわかるやり方で、世界中が理解できる方法と言語と表現で、われわれの勇気とプライドを示しつづけること、それが次の時代を生きるみなさんの役目です・・・
あと何回かモンゴルやチベット関連を学習して、Great Game終結後のニッポンの地政学を一段落させる予定。
文責:鵄士縦七