Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学57

前回に続けて、日露戦争後のニッポンの外交を復習する。コリアについては、ニッポンは列強各国の承認を得ながら韓国併合に至る。

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コリアについて簡単に復習しておく。日露戦争の最中に竹島の編入もしているので、ついでにまとめて復習する。

既に復習済みだけれど、(Synmeの怠慢で)だいぶ間が空いているので日露戦争(1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日)中の動きから確認したい。

日露戦争の緒戦は朝鮮半島における陸戦であったが、これに勝利したニッポンは同年8月22日大韓帝国と第1次日韓協定を締結して、大韓帝国が他国と勝手な外交を行わない様に監視する体制を敷いた。日清戦争後の教訓に学んだ訳である。

さて、日露戦争の終結(ポーツマス条約の締結、1905年[US129]9月5日)から約2ヶ月後に第2次日韓協約を締結(1905年[US129]11月17日)した。

ポーツマス条約を締結したことによって、ニッポンは大韓帝国を保護国化することについて、アメリカ、イギリス、ロシアの3国それぞれから承認を得ることとなった。この外交的準備の上で、ニッポンは大韓帝国と第2次日韓協約を締結し、大韓帝国の外交権を奪ったわけである。

加えて、第2次日韓協約に基づき、1905年[US129]12月21日ニッポンは勅令(韓国ニ統監府及理事庁ヲ置クノ件(明治38年勅令第240号))を発し、韓国統監府を漢城(現ソウル)に設置した。その主な役割は大韓帝国が勝手に第三国と外交しないように監視することにあった。初代統監には伊藤博文が就いた。

大韓帝国の勝手な外交を形式上も事実上も封じたニッポンは次の段階へ進む。しかし、ことの起こりは、またしてもコリアの歴史で再三繰り返される戦略なき外交であった。

1907年[US131]4月20日に高宗がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に3人の密使を送り、第2次日韓協約によって失った外交権回復を欧米列強に訴えようとしたが、ロシア、アメリカ、フランス第三共和政、イギリス、ドイツ第二帝国、オランダに拒絶された挙句、発覚。伊藤博文統監が高宗の責任を追及、7月18日に高宗は子の純宗へ譲位して退位したのだ。

結局、1907年[US131]7月24日ニッポンは第3次日韓協約を結び、大韓帝国官吏の任免権等を得るのに加えて、非公開で大韓帝国軍の解散と司法権・警察権の接収を取り決め、保護国化を強めた。

8月1日にはニッポンは大韓帝国軍を解散させた。7月24日に締結した第3次日韓協約で非公開で定められた大韓帝国軍の解散を、7月30日に締結された第1次日露協約の後に遅滞なく実行に移したような日程である。

コリアは日清戦争のタナボタでチャイナの1000年の支配から独立できたにもかかわらず、三国干渉に付け込んでニッポンを蔑ろにした挙句みずからロシアの事実上の属国になり(露館播遷)、日露戦争でニッポンがロシアを破っても大勢を読もうとせずに無策の外交を継続してニッポンを怒らせて、数度の日韓協約の締結で外交権と内政権を順次失っていくこととなった。

 

ともかく、ニッポンは保護国化から併合へと対大韓帝国の政策を変更して行ってしまった。1909年[US133]9月4日、ニッポンは清国と日清協約を締結し豆満江(とうまんこう)を清国と大韓帝国の国境とすることに合意した。いわば最後の仕上げとして、大韓帝国の範囲を明確にするべく清国と協議し、清国と大韓帝国の国境について合意したわけである。 

そして、1910年[US134]8月22日ニッポンは大韓帝国を併合した(〜1945年[US169]9月9日)。Synmeは大韓帝国を「併合」する必要はなく、「保護国化」するだけに留めておけば良かったのではないかと考えている。

詳しくは、ニッポンの地政学48:1910.8.22韓国併合(大韓帝国の併合) - Synmeの地政学がくしゅう帳を参照してください。 

 

文責:鵄士縦七