フランスの地政学35:1895.4.23三国干渉
フランスの地政学を学ぶ。しばらくの間、アフリカ侵略と英仏露三国協商にフォーカスする。 今回は三国干渉。最初に、クールにザックリまとめる。
1895年[US119]4月23日、ロシア、ドイツおよびフランスは馬関条約で割譲された遼東半島を清に返還することをニッポンに対して要求した(三国干渉)。フランスは露仏同盟に基づきロシアに協力した。
日清戦争(1894年[US118]7月25日〜1895年[US119]4月17日)にニッポンが勝利し、遼東半島を割譲した。
ロシアはこれが極東での自国の南下政策の障害となると考え、ドイツとフランスと共にこれに反対した。これが三国干渉(1895年[US119]4月23日)の意義の1つである。
フランスがロシアに賛同した背景には「自国のチャイナ進出の計算」という観点もあったとSynmeは思う。
しかし、それよりも、露仏同盟(1891年[US115]公然化、1894年[US118]1月4日公式に締結)の成果としての、「ロシアに協力する姿勢」のアピールという観点が重要だったのではないかとSynmeは考える。なにせ、露仏同盟の公式締結から1年と少ししか経っていないのである。
19世紀末〜20世紀初頭のフランス第三共和政の外交は、チャイナ、インドチャイナ、及びアフリカで植民地化をどんどん進める一方で、ドイツ第二帝国に対抗するためにロシア、ニッポン、そしてイギリスと宥和的な外交を展開している。
そういう意味では、フランスの地政学としての三国干渉(1895年[US119]4月23日)は「露仏同盟の補強」が第一義である。
ドイツが独露再保障条約の更新を拒絶するとすぐに、フランスはロシアとの関係を強める。翌1891年[US115]には露仏同盟が公然化した。公式には1894年[US118]に締結され三国同盟を仮想敵国とした。
1894年[US118]7月25日、ニッポンと清の間に日清戦争が勃発した。ニッポンが勝利し、翌1895年[US119]4月17日に馬関条約を締結。ニッポンは、清に李氏朝鮮の独立を承認させ、台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲させ、巨額の賠償金を支払わせた。
1895年[US119]4月23日、ロシア、ドイツおよびフランスは馬関条約で割譲された遼東半島を清に返還することをニッポンに対して要求した。これを三国干渉と言う。
1895年[US119]11月8日ニッポンは清と遼東還付条約を締結。馬関条約で割譲された遼東半島を清に返還する代わりに、追加的に賠償金を獲得した。
文責:鵄士縦七