Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学41:1912.7.8第3次日露協約

第1期グレートゲーム(The Great Game)終結後のニッポンの地政学を学んでいるが、今回は第3次日露協約をロシアの観点からも学んでおく。最初に、クールにザックリまとめる。

1912年[US136]7月8日ロシアはニッポンと第3次日露協約を締結し、内蒙古西部(ロシア)と東部(ニッポン)の権益を相互に承認した。

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第3次日露協約(1912年[US136]7月8日)は、辛亥革命(1911年[US135]10月10日〜1912年[US136]2月12日)と外蒙古独立宣言(1911年[US135]12月29日)に対応した列強ロシアとニッポンの協約である。

3度目の掲載になるが、英露協商(1907年[US131]8月31日)の内容は以下の通り。

  1. イラン(ペルシア)については、北部をロシアの勢力範囲とし、南部をイギリスの勢力範囲とし、中立地帯を設ける
  2. アフガニスタンはイギリスの勢力圏であることを、ロシアは承認する。ただし、イギリスのアフガニスタン統治は平和的でロシアに敵対しないものとする
  3. チベットについては、ロシアもイギリスもその内政に干渉しない

妙な言い方になるけれど、ロシアはモンゴルについては何らイギリスに気兼ねなく行動できたわけである。

それに、ロシアとしては辛亥革命(1911年[US135]10月10日〜1912年[US136]2月12日)が勃発してすぐに外蒙古を支援して清国から独立を宣言させている(1911年[US135]12月29日)。

ロシアにとっては、内蒙古を東西に分けて日本と相互の権益を承認することなど形式にすぎなかったのではないか?とSynmeは感じる。

とはいえ、バルカン半島を南下する政策を再度採用しているロシアとしては、ニッポンと一時的にしても「礼儀正しく」外交を重ねていくことにメリットこそあれ、何のデメリットもなかったはずである。

ロシアは裏切るのだから、ロシアにとってのメリットを常に意識した外交上の付き合いを必要とするのである。

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1907年[US131]8月31日、英露協商の締結。ロシアは、イギリスとフランスの暗黙の了解を得て、改めてバルカン半島を南下する政策を採用した。 

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辛亥革命の勃発を受けて、1911年[US135]12月29日ボグド・ハーン政権が外蒙古の清国からの独立を宣言した。 

 

文責:鵄士縦七