フランスの地政学34:1896.8.6マダガスカルの併合
フランスの地政学を学ぶ。しばらくの間、アフリカ侵略と英仏露三国協商にフォーカスする。 今回はマダガスカルの併合。最初に、クールにザックリまとめる。
1896年[US120]8月6日フランス第三共和政は、マダガスカルの併合を宣言し、メリナ王国は滅亡した。
マダガスカル - Wikipediaの場所がわからない人は少ないと思う。Synmeは知らなかったので調べてみたところ、現在は共和政(マダガスカル共和国)で、首都はアンタナナリヴ、マダガスカル島は本州(島)の約2.6倍の大きさ(マダガスカル島は59.4万㎢、本州は23.0万㎢)、だそうだ。
さて、ニッポン人にとっては他人事とは思えないマダガスカル近代史を簡単にまとめる。併合に成功するフランス第三共和政はもちろん、イギリスとドイツも間接的に関わってくる。
- 17世紀前半、メリナ王国がマダガスカル中央高地に出現
- 18世紀初め、メリナ王国分裂
- 1793年[US017]アンヂアナンプイニメリナ(在位1787年[US011]〜1810年[US034])がメリナ王国を再統一
- 19世紀初め、ラダマ1世(在位1810年[US034]〜1828年[US052])がマダガスカル島の大部分を征服。イギリスは、フランスに対抗するため、ラダマ1世を援助した
- 1860年代〜1880年代、メリナ王国はイギリスとフランスとの対立を利用し競合させる外交を展開して独立を維持
- 1869年[US093]11月17日スエズ運河開通
- 1875年[US099]イギリスがスエズ運河株式を取得。イギリスにとってのマダガスカルの重要性が低下
- 1890年[US114]7月1日イギリスとドイツ第二帝国がヘルゴランド=ザンジバル条約を締結。イギリスはドイツ第二帝国にザンジバル - Wikipediaにおける権益を認めさせた
- 同年(1890年[US114])イギリスはザンジバルにおける権益を承認させる代わりに、フランス第三共和政のマダガスカル島における権益を認めた
- 1895年[US119]フランス第三共和政によるマダガスカル侵攻開始
- 1896年[US120]8月6日フランス第三共和政がマダガスカルの併合を発表。メリナ王国が滅亡した
つまり、軍隊の近代化、国内統一などを優先してある欧米列強の援助を受けると、列強同士の勢力争いあるいは世界規模の植民地運営政策/外交方針の変更の影響を受けて別の欧米列強に植民地化されると言うことである。
1859年[US083]フランス第二帝政とエジプトはスエズ運河の建設を開始し、1869年[US093]11月に開通。地中海から紅海への船舶輸送を可能にした。
1875年[US099]エジプトからスエズ運河会社株式の44%を400万ポンドで取得し、イギリスはスエズ運河会社の筆頭株主になった。
文責:鵄士縦七