Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学54

つづいて、日露戦争から明治時代末までのニッポンの地政学を整理・復習する。その過程で辛亥革命を契機として大きく変化が生じるチャイナ、モンゴル、チベットの歴史も整理・復習する。

まず今回は、第1次日英同盟の締結から日露戦争の終結までを復習する。ここでのメインは欧米列強との外交である。コリアについても、第1次日韓協約の締結を復習する。

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第1期グレートゲーム(The Great Game)終盤のニッポンの地政学は欧米列強との外交戦略がメインである。換言すると、ニッポンの外交戦略の1つとして日露戦争が位置付けられていたので、ニッポンは(歴史的に見て戦争に強い)列強ロシアに勝利することができた、という言うこともできるのではないかとSynmeは思う。

1902年[US126]1月30日ニッポンはイギリスと第1次日英同盟を締結した。これによりニッポンはロシアとの戦争が勃発した際にイギリスが中立を保つことを確認できた。そして、イギリスとしてもロシアがニッポンに勝利する状況は避けたかったため、ロシアのバルチック艦隊のスエズ運河の通過を認めない、各寄港地で妨害行為を行うなどイギリスから間接的な支援を得ることができた。

そして、日露戦争が勃発する1904年[US128]2月8日)。興味深いことに、勃発直後に英仏協商(Entente Cordiale、1904年[US128]4月8日)が締結されている。ニッポンが日露戦争の準備段階において対フランスの外交を展開したかどうかをSynmeは不勉強で知らないが、フランスとしては日露戦争に対して中立を保つ1つの根拠となり(露仏同盟(1891年[US115])が締結されているため、イギリスと何の条約もなければロシアから日露戦争への参戦を求められてもフランスは断りにくかっただろう)、ニッポンとしては、フランスがイギリス同様に中立を保つことが担保されたわけである。

日露戦争の緒戦は朝鮮半島における陸戦であったが、これに勝利したニッポンは同年8月22日大韓帝国と第1次日韓協定を締結して、大韓帝国が他国と勝手な外交を行わない様に監視する体制を敷いた。日清戦争後の教訓に学んだ訳である。

つづいて日本海海戦(1905年[US129]5月27〜28日)ニッポンがロシアのバルチック艦隊を打ち破ると、桂・タフト協定が秘密裏に締結され(同年7月29日)た。米比戦争(1899年[US123]2月4日〜1902年[US126]7月1日)終結後のアジア外交を展開するためにアメリカとしては、勝ち馬に乗ると同時に、自国のフィリピンでの権益を認めさせる好機だったわけである。

間を置かずに、第2次日英同盟がイギリスと締結され(同年8月12日)、終戦を待たずにニッポンのコリアに対する権益はアメリカとイギリスの承認を得たことになる。

そして、ポーツマス条約(同年9月5日)が締結され、ニッポンはロシアに勝利して日露戦争を終結させることに成功した。

ただし、ポーツマス条約においては、アメリカの意図も働き、ニッポンは賠償金を獲得できなかった。日露戦争終結の段階で既に、「戦後」のアジアに関するアメリカの野望が見え隠れしており、「ニッポンの強国化」がアメリカ外交により未然に防がれているのである。

 

文責:鵄士縦七