Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学55

つづいて今回は、日露戦争後のニッポンの外交を欧米列強との外交面から復習する。明治ニッポンの悲願であった関税自主権の回復も達成される。一方で、チャイナ分割に関連してアメリカとの外交関係が変化してくる点が重要である。コリアについては、ニッポンは列強各国の承認を得ながら韓国併合に至る。

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やはり、まずはアメリカとの外交関係から復習すべきであろう。

日露戦争終結(ポーツマス条約締結(1905年[US129]9月5日))から約1ヶ月、1905年[US129]10月12日ニッポン政府とEdward Henry Harrimanは南満州鉄道の共同経営に関する覚書(桂・ハリマン覚書)を交わした。ここまでは桂・タフト秘密協定(1905年[US129]7月29日)をアメリカと、第2次日英同盟(1905年[US129]8月12日)をイギリスとそれぞれ締結した流れの延長線上にあったわけである。

ところが、小村寿太郎の反対で、23日にはニッポン政府が同覚書を破棄した。これにより、ニッポンは、東アジアにおけるロシアvs英米日という構図を自ら放棄したようなものであるとSynmeは考える。

1906年[US130]11月26日ニッポンは南満州鉄道株式会社を単独資本で設立、単独で(つまりアメリカを排する形で)南満州鉄道の経営に乗り出した。

ロシア第1革命(1905年[US129]1月22日〜1907年[US131]6月16日)が終わると、日仏協約(1907年[US131]6月10日)を締結していたフランスの思惑によって、ニッポンはロシアと第1次日露協約を締結(1907年[US131]6月10日)した。

アメリカの仲介でロシアを倒したニッポンが南満州鉄道権益に関するアメリカの圧力への牽制としてロシアと結んだのである。あまりにアメリカに対する配慮を欠いた外交と言わざるを得ないだろうとSynmeは思う。

これに対抗して、アメリカは1907年[US131]12月16日からグレート・ホワイト・フリート(Great White Fleet)で世界一周航海を行いニッポン及び欧州列強に海軍力を誇示した。

日米対立の構図が描かれてしまっていく中、アメリカ西海岸の日本人移民排斥運動による緊張関係を緩和するために1908年[US132]11月30日ニッポンとアメリカは高平・ルート協定を成立させて、勢力範囲の相互承認と門戸開放政策の維持を約して友好関係を維持した。

しかし、アメリカは1909年[US133]2月22日にグレート・ホワイト・フリートによる世界一周航海を成功裏に完遂すると、1909年[US133]11月アメリカは満州鉄道の中立化を提案した。

この満州鉄道中立化提案自体は、ニッポンとロシアが反対し、イギリスとフランスも日本とロシアを優先すべきと考えて同意しなかったため、実現しなかった。しかし、アメリカとしては南満州鉄道に関して一個もニッポンを許していないわけである。

 

文責:鵄士縦七