Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

【再掲】ロシアの地政学39:1907.7.30第1次日露協約

【再掲にあたっての備忘録】1905年[US129]9月5日に日露戦争(1904年[US128]2月8日〜)に敗北したものの、1907年[US131]6月16日にロシア第1革命(1905年[US129]1月22日〜)を何とか終結させて帝政を維持したロシアのロマノフ家は、同1907年[US131]7月30日に有色人種新興列強ニッポンと第1次日露協約を締結した。

1905年[US129]8月12日イギリスがニッポンと第2次日英同盟を結んで対象地域にインドを追加し軍事同盟化を果たしていたので、ロシアの南下政策の観点からは、アフガニスタン/インド・ルート及び満州ルートを諦めて現状を維持し、 バルカン半島ルートに回帰することを意味する。

ニッポンには、満州ルートでの現状維持に際するアメリカへの牽制という役割も期待していたはずである。

第一次世界大戦に至る地政学として長々と復習を続けているけれど、このロシアのバルカン半島南下ルート回帰は大きな転機であった。

逆に言うと、ロシアの地政学の観点からは、バルカン半島ルートに新たな光明が見えない中では、アフガニスタン/インド・ルート及び満州ルートを諦めると言う選択を取らなかった可能性がある。「南下」こそがロシアの地政学の要だからである。

 

1905年[US129]8月12日イギリスは日本と第2次日英同盟を結び、対象地域にインドを追加すると同時に、本格的な軍事同盟に引き上げた。

 

いよいよ第1期グレートゲーム(The Great Game)終結が目前。今回は第一次日露協約をロシアの観点から学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1907年[US131]6月16日にロシア第1革命を終結させたロシアは、7月30日ニッポンと第1次日露協約を締結。秘密協定により、東アジアでの権益を相互承認し、アメリカの介入とニッポンの勢力拡大を抑止した。

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日露戦争(1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日)の最中に始まったロシア第1革命(1905年[US129]1月22日〜1907年[US131]6月16日)をようやく終結させたロシアは、南下政策を再度バルカン半島に集中するための外交を展開する。

どうやら背景には、ドイツに対抗したいフランスが、露仏同盟(1891年[US115]公然化、1894年[US118]1月4日締結)を根拠としてロシアにドイツないしオーストリア=ハンガリー帝国を牽制して欲しかった事情があったようだ。

ザックリいってロシアの南下ルートは、バルカン半島、アフガニスタン/インド、満州と3つあるわけだけれど、バルカン半島に集中するためには当然ながら他の2ルートでの権益を確保する外交が必要になるわけである。

そして、最初の「協働」相手はニッポンになる。満州ルートの南下を諦める代わりに北満州の権益を確保すること、ロシアが手薄になった途端にアメリカが満州に進出してくることがないようにニッポンをアメリカに対する盾として利用したいこと、最後に日英同盟が存在するためイギリスとの「協働」が不可避な場合にはニッポンとの「協働」が不可欠であること、等が理由である。

ともかく、ロシアは第1次日露協約の締結(1907年[US131]7月30日)によりニッポンとの「協働」を成し遂げることになった。

ロシア第1革命の終結が6月16日、日仏協約の締結が6月30日、第1次日露協約の締結が7月30日… フランスの外交力は流石というところか。おそらくそれほどドイツ第二帝国が脅威だったということだとSynmeは思う。

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文責:鵄士縦七