Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学56

前回に続けて、日露戦争後のニッポンの外交を欧米列強との外交面から復習する。明治ニッポンの悲願であった関税自主権の回復も達成される。一方で、チャイナ分割に関連してアメリカとの外交関係が変化してくる点が重要である。コリアについては、ニッポンは列強各国の承認を得ながら韓国併合に至る。

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それでは、そのほかの外交関係を復習しよう。 

英露協商の締結(1907年[US131]8月31日)によって、ニッポンは事実上イギリス、ロシア、フランス側陣営に属することとなった。しかし、これはあくまでフランスの思惑通りにニッポンとロシア、ロシアとイギリスがくっつけられた賜物であり、ニッポンの自主外交とは言えない様にSynmeは思う。

そして、その裏側でニッポンはあからさまなアメリカとの対立関係を作出してしまったことは前回復習した。そして、長期的にはこのことがニッポンとイギリスとの関係にも影響することになるのだ。

一方、短期的にはロシアとの関係が深化して行く。

まず、第1次日露協約(1907年[US131]、秘密協定)は、ニッポンの南満州と大韓帝国での権益とロシアの北満州と外蒙古での権益を相互に承認し、アメリカの介入を抑止するものであった。

つづく第2次日露協約(1910年[US134]7月4日、秘密協定)は、アメリカの満州鉄道中立化提案を拒否し、満州におけるそれぞれの権益を確保することを確認するものであった。そして、第3次日露協約(1912年[US136]7月8日)は、辛亥革命(1911年[US135]10月10日〜1912年[US136]2月12日)と外蒙古独立宣言(1911年[US135]12月29日)に対応して、内蒙古東部と西部の権益を相互に承認するものであった。

この様に、ニッポンはチャイナに関する多国間外交について、ロシアと共同歩調を秘密裏にとっていたことになる。ただ、ニッポンの秘密外交がニッポンにとっての利益となったことが、かつてあったのだろうか… ましてやロシアを相手に…

とは言え、イギリスとの軍事同盟も継続している。1911年[US135]7月13日イギリスはニッポンと日英同盟を更新・締結した(第3次日英同盟)。イギリスとしては英仏露による対ドイツ包囲網継続のために有用であったため、アメリカに一定の配慮をしつつ更新した形。

そして、この1911年に明治ニッポンの悲願であった関税自主権の回復が達成された。1911年[US135]2月21日にアメリカと新・日米通商航海条約を署名し、4月3日にイギリスと新・日英通商航海条約を署名したのだ。日露戦争に勝利したが故の外交的快挙である。

 

文責:鵄士縦七