【再掲】フランスの地政学41:1907.7.30第1次日露協約
【再掲にあたっての備忘録】ニッポンとロシアの友好関係樹立は、フランスとイギリスの思惑でもあった。日露戦争で賠償金を取れず財政難であったニッポンに対して、フランス第三共和政の主導でフランス第三共和政およびイギリスが国債の引受をしているのだ。
ロシアのバルカン半島南下ルート回帰は「当然ながら」イギリスとフランスがこれを黙認しているからこそ起こったロシアの外交戦略転換なのである。
第一次世界大戦に至る地政学として長々と復習を続けているけれど、喜望峰ルートがスエズ運河ルートに置き換わる中、イギリスにとって常に北からのロシア南進を堰き止める防波堤であったバルカン半島をドイツ第二帝国がゲルマン主義を掲げて東進しようとし始めたと言う大きな外交環境の変化が生じているのである。
であれば、ロシアのバルカン半島南下を容認して、スラブ主義をゲルマン主義にぶつけようと言うことである。
フランスの観点はよりシンプルでロシアのバルカン半島南下を容認すれば、ロシアとオーストリア=ハンガリー二重帝国の直接対決は避けられず、結果的にロシアとドイツ第二帝国が対決することも避けられないので、「きっちり」露仏同盟(1891年[US115]公然化、1894年[US118]締結)を活用してロシアをドイツ第二帝国に対する牽制とすることができるのだ。
フランスの地政学を学ぶ。しばらくの間、アフリカ侵略と英仏露三国協商にフォーカスする。 今回は第1次日露協約。最初に、クールにザックリまとめる。
1907年[US131]7月30日ニッポンはロシアと第1次日露協約を締結した。
まず、フランス第三共和政がニッポンと日仏協商を締結したのが、 1907年[US131]6月10日。
ロシアにおいて、日露戦争(1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日)の最中に始まったロシア第1革命(1905年[US129]1月22日〜1907年[US131]6月16日)が終結したのが、6月16日。
そして、ロシアとニッポンが第1次日露協約を締結したのが、7月30日である。
わずか2ヶ月で英露協商の締結まであと一歩と言うところまで漕ぎ着けている。フランス第三共和政の外交の手際は流石である。
ここでは、日露戦争で賠償金を取れなかったニッポンに対して、フランス第三共和政の主導でフランス第三共和政およびイギリスが国債の引受をしていることがポイントだとSynmeは考える。
つまり、財政難のニッポンに財政援助(国債の引受)をする見返りに、ニッポンに対して、(宿敵?)ロシアとの提携を迫ったと言うことである。フランスが、である。同時に、以下の2点も考えておきたい。
- イギリスも国債引受に応じていると言うことは、一連のフランス外交の裏側にイギリスの意図が隠れている可能性があると言うこと。イギリスこそ、外交のエキスパートであるからだ。具体的には、バグダード鉄道(1903年[US127]着工)に現れているドイツ第二帝国がペルシア湾へのアクセスを得ようとする戦略を阻止することこそがこの当時のイギリスの最優先事項であった。
- 第1次世界大戦の前後において、ニッポンの外交の軸は日英同盟と日露協約であった。ロシアとの同盟関係がフランスの国益に沿う形で展開された外交によって始まったことは覚えておいて良い。
とにかく、英露協商への準備は整った。
文責:鵄士縦七