Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学46:1909.9.4日清協約

第1期グレートゲーム(The Great Game)終結後のニッポンの地政学を学ぶ。今回は日清協約。最初に、クールにザックリまとめる。 

1909年[US133]9月4日ニッポンは清国と日清協約を締結し豆満江(とうまんこう)を清国と大韓帝国の国境とすることに合意した

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一連のニッポンの地政学という観点からは、ニッポンが清国と豆満江(とうまんこう)を清国と大韓帝国の国境とすることに合意した、という点が最も重要なポイントである。

大韓帝国の併合に向けて、ニッポンは大韓帝国の外交権を奪い、大韓帝国軍を解散させ、イギリス、フランス、ロシア、アメリカの内諾を得て来た。そして、最後の仕上げとして、大韓帝国の範囲を明確にするべく清国と協議し、清国と大韓帝国の国境について合意したわけである。

あまりウェブ上に情報もなく、Synmeが不勉強なので詳細がわからないが、日清協約と呼ばれる条約は、「満州協約(満州五案件に関する日清協約)」及び「間島協約」という2つの条約をまとめた通称である。

満州協約は満州における鉄道建設・経営、炭鉱経営に関連する取り決めであるが、どうやらニッポンはこれをとりまとめるためにもう一方の間島協約で譲歩することとなり、国境を豆満江とすることに合意したようだ。

そもそも「間島」とは、コリア人が豆満江の中州島を「間島」と読んでいたところ、豆満江の北側に居住するコリア人が増えた結果として、豆満江以北のコリア人居住地全体を「間島」と呼ぶことになったそうだ。

コリア人が多く居留するのであるから、当然、国境交渉上はこの間島も大韓帝国の領土だと主張する根拠となるわけである。しかし、ニッポンは満州を優先し、間島ではチャイナに譲歩して豆満江まで大韓帝国国境を事実上「後退」させたということのようだ。

不勉強で、Synmeはこの外交交渉・判断の是非についてコメントできないけれども、当時のニッポンにとっては清国と大韓帝国間の国境の確定こそが重要で大韓帝国の領土の最大化には関心が薄かったということは明らかなようだ。繰り返しになるが、既に外交権を失っていた大韓帝国は当該交渉の当事者ではなかった。

 

文責:鵄士縦七