Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

【再掲】ドイツの地政学15:1882.5.20三国同盟

【再掲にあたっての備忘録】Otto von Bismarckとしては、「良い展開」である。ここまでを読んで1878ベルリン会議(1878年[US102]6月13日〜7月13日)を主催していたのかも知れないけれど…

独墺同盟にイタリア王国が加わり三国同盟を形成した。

対外的にはフランス第三共和政に対する包囲網を形成し、フランスの孤立化を促進する意義があり、対内的にはイタリア王国と潜在的な対立関係にあるオーストリア=ハンガリー二重帝国にとってのひとまずの安心材料となった。

 

ドイツ帝国の地政学、ドイツ統一後は「戦わない」ための同盟外交がOtto von Bismarckによって展開される。今回は三国同盟を学ぶ。事実だけ記載する。

1882年[US106]5月20日ドイツ第二帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国の軍事同盟にイタリア王国が加わり、三国同盟(〜1915年[US139])を締結した。

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フランス第三共和政のチュニジア侵攻とバルドー条約締結(1881年[US105]5月12日)を契機にイタリア王国はフランスに対抗するためドイツ、オーストリアに接近する。

地図を見ると分かるけれど、フランスがチュニジアを保護国化すると、イタリアは北西からも南西からもフランスの侵攻の脅威にさらされることになる。Synmeも、一旦イタリアがドイツ、オーストリアと組みたくなる気持ちは分かる。

1882年[US106]5月20日ドイツ第二帝国はオーストリア=ハンガリー二重帝国及びイタリア王国と三国同盟(Triple Alliance (1882) - Wikipedia)を締結した。ドイツとしてもロシアを失った補強という意味と、地理的にもフランス孤立化にイタリアが資するという判断だろう。

しかし、イタリアはオーストリアと領土問題「未回収のイタリア」を抱えており、三帝同盟と同様に、締結当初からドイツ以外の同盟国の間に対立関係を内包する同盟であった。

 

文責:鵄士縦七