【再掲】イギリスの地政学09:1899.6.19イギリスとエジプトがスーダンの共同統治開始
【再掲にあたっての備忘録】イギリスとしては、エチオピア帝国に隣接するスーダンは単独統治するよりもエジプトと共同統治する方が陸軍をエジプトに任せることができて良かったのではないか?
なにはともあれ、イギリスは20年弱をかけてスーダンのイギリスとエジプトの共同統治を実現させた。
さて、アフリカ分割に関連するイギリスの地政学を学んで行く。今回はマフディー戦争。最初に、クールにザックリまとめる。
1881年[US105]自らマフディーを名乗ったMuḥammad Aḥmadの反乱が起こりスーダンを支配した(〜1898年[US122])。しかし、エジプト経済再建を経てエジプト・イギリス軍はマフディー軍を掃討し、1899年[US123]6月19日以降スーダンはエジプト・イギリスの共同統治下に置かれた。
エジプトを保護国化したイギリス、アフリカ北部の植民地化政策として次はスーダンが問題となった。
そもそもスーダンは1819年[US043]にムハンマド・アリー朝エジプトの始祖Muhammad Ali Pashaに征服されて以降エジプトに支配されていた。
エジプトで起こったウラービー革命と機を一にして、Muḥammad Aḥmadはエジプトに対する反乱を起こし、 1881年[US105]6月19日みずからを「マフディー」(「約束された救世主」)であると宣言した。
マフディー軍はエジプト軍やイギリス軍に勝利し、1885年[US109]1月25日チャールズ・ゴードンに率いられたエジプト・イギリス軍をハルツームで陥落させると、マフディー国家(Mahdist Sudan)を樹立して1898年[US122]までの13年間スーダンを支配した。
しかし、エジプトはスーダンに対する主権を放棄しておらず、イギリスもこれを支持していた。そして、イギリスの保護国となったエジプトは経済を再建し、エジプト軍もイギリス軍によって訓練されていた。
1898年[US122]9月2日にオムドゥルマンの戦い(Battle of Omdurman)でホレイショ・ハーバート・キッチナーが率いるイギリス・エジプト軍がマフディー軍を撃破し、1899年[US123]からイギリスとエジプトが共同統治することとなった(イギリス・エジプト領スーダン、1899年[US123]〜1956年[US180])。
synme.hatenablog.com1875年[US099]エジプトからスエズ運河会社株式の44%を400万ポンドで取得し、イギリスはスエズ運河会社の筆頭株主になった。
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1880年[US104]南アフリカにおいてイギリスがトランスヴァール共和国を併合しようとするも敗北。1881年[US105]プレトリア協定を締結し、イギリスは改めてトランスヴァール共和国の独立を承認せざるを得なかった。
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1882年[US106]イギリスはウラービー革命の鎮圧に乗じてエジプトを保護国化した。
文責:鵄士縦七