Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

【再掲】イギリスの地政学11:1899.10.11第2次ボーア戦争の勃発

【再掲にあたっての備忘録】アフリカ分割が進む中、ドイツ第二帝国の植民地拡大はあれど、エジプト、ケニア及びザンジバルの植民地化、ローデシアの植民地化着手、そしてスーダンの共同統治開始と順調に見えたイギリスであった。

一方、ドイツ第二帝国やイタリア王国など新興列強が勢力を拡大し、オーストリア=ハンガリー二重帝国を含めた三国同盟を形成し、これに露仏同盟が対抗するという新しい国際関係が形成されてきていた。

ここで、「泥沼」の第2次ボーア戦争が勃発した。「イギリスがボーア戦争にかかりきりになる」という新しいファクターが加わったことで、国際関係が一段と変化を見せることになる。

 

さて、アフリカ分割に関連するイギリスの地政学を学んで来た。今回の第2次ボーア戦争で一区切りである。最初に、クールにザックリまとめる。

1899年[US123]10月11日に第2次ボーア戦争が勃発。イギリスは1900年[US124]9月3日に戦闘終結を宣言したもののボーア人はゲリラ戦を展開。1902年[US126]5月31日ようやくフェリーニヒング条約が締結され、トランスヴァール共和国およびオレンジ自由国はイギリスの植民地となった。

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第2次ボーア戦争(1899年[US123]10月11日〜1902年[US126]5月31日)はイギリスとボーア人国家であるトランスヴァール共和国およびオレンジ自由国の間で戦われた。

トランスヴァール共和国で金の鉱脈が発見され、イギリス人鉱山技師が多数ケープ植民地から流入したが、ボーア人は金産業に重税を課し、投票権も与えなかった。

イギリスとトランスヴァール共和国の対立は深まり、トランスヴァール共和国が1899年[US123]10月11日に宣戦布告して、ケープ植民地及びナタール植民地に侵攻して第2次ボーア戦争(1899年[US123]10月11日〜1902年[US126]5月31日)が勃発した。

1899年[US123]中は、トランスヴァール共和国およびオレンジ自由国が優勢であったが、1900年[US124]1月以降イギリス軍が増派され反攻を開始し、9月3日に戦闘終結を宣言した。しかし、ボーア人によるゲリラ戦は2年弱続き、1902年[US126]5月31日にフェリーニヒング条約(Treaty of Vereeniging)が締結され、ボーア人の自治とオランダ語の使用が認めれると同時にトランスヴァール共和国およびオレンジ自由国が植民地化されることが3ヶ国の間で合意された。

ボーア人によるゲリラ戦に対抗するため、イギリスはゲリラ軍の隠れ場所を奪うためにブール人の農家を片端から焼いていくという「焦土作戦」を展開し、ボーア人の女性と子供を強制収容する「強制収容所作戦」を近代国家として初めて展開した。

イギリスは第2次ボーア戦争(1899年[US123]10月11日〜1902年[US126]5月31日)に勝利したものの、2年半もの時間と多額の戦費を費やしてしまった。また、「焦土作戦」や「強制収容所作戦」にまで訴えた末の勝利は、敗北してしまった第1次ボーア戦争(トランスヴァール戦争、1880年[US104]12月20日〜1881年3月23日)と併せて、イギリスの権威を大きく落とすことになった。

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ちなみに、「ゲリラ戦」はスペイン独立戦争で生み出された戦略であり、「焦土作戦」はボルトガルにおける対ナポレオン戦争で生み出された戦略であり、ロシアがナポレオンを撃退した戦略でもある。

また、近代国家による「強制収容所作戦」は、この第2次ボーア戦争を嚆矢として、アメリカ、ロシア、ナチスドイツ、チャイナ等で実施されることになる。

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1880年[US104]南アフリカにおいてイギリスがトランスヴァール共和国を併合しようとするも敗北。1881年[US105]プレトリア協定を締結し、イギリスは改めてトランスヴァール共和国の独立を承認せざるを得なかった。 

 

文責:鵄士縦七