Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学41:1907.7.30第1次日露協約

いよいよ第1期グレートゲーム(The Great Game)終結が目前。今回は第1次日露協約を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1907年[US131]7月30日ニッポンはロシアと第1次日露協約を締結。秘密協定により、ニッポンの南満州と大韓帝国での権益とロシアの北満州と外蒙古での権益を相互に承認した。

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日仏協約の締結(1907年[US131]6月10日)と第1次日露協約の締結(1907年[US131]7月30日)をもって、ニッポンのチャイナ本土への進出がフランスとロシアによって許容されることになった。

イギリスは日英同盟を結ぶ軍事同盟国であるし、ドイツは極東でニッポン・イギリス・フランス・ロシア連合に戦争を挑めるわけもなく、そもそも欧州でイギリス・フランスと対峙していた。

つまり、ニッポンのチャイナ進出は、三国干渉(1895年[US119]4月23日)を成した露仏独の結束が 崩れた結果に加えて、ロシアにも対ドイツ第二帝国包囲網に加わって欲しいフランスの思惑が反映されていたのだ。

ニッポンの地政学的な立場としては、大きく2つの変化が生じたことを意味する。第1に、ニッポンが事実上は三国協商(Triple Entente)陣営に加わったということ、第2に一旦は三国干渉で諦めざるを得なかったチャイナ分割にイギリス、ロシア、ドイツ、フランスに次ぐ5カ国目として名前を連ねたということだ。

Synmeが思うに、実情は三国協商ではなく四国協商と言うべきであったのではないか?ニッポンはそういう主張を当時すべきだったのではないか?

ともかく、第1次日露協約(1907年[US131]7月30日)により、公には清国の独立、チャイナの門戸開放、チャイナでの機会均等を掲げた。一方、秘密協定で、ニッポンの南満州と大韓帝国での権益とロシアの北満州と外蒙古での権益を相互に承認した。

北満州と南満州の境界はハルビンと長春の中間点に設定された。

Synmeが思うに、 満州を巡るニッポンの外交は日露戦争後は「拙速」であったのではないか?短期的には勝利したものの、大国ロシアに対してニッポン1国で当たるのは得策でなく、仲介が信用ならないフランスというのも脇が甘い。むしろアメリカがチャイナ進出に出遅れていたことは明白であったのだから、南満州をアメリカと共同経営することで恩を売り、同時にイギリス・アメリカ・ニッポンのつながりを強化すべきだったのではないかと考える。

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文責:鵄士縦七