Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

【再掲】フランスの地政学40:1907.6.10日仏協約

【再掲にあたっての備忘録】ロシア第1革命(1905年[US129]1月22日〜1907年[US131]6月16日)が終わり、ロシア帝政が維持されることを見越したかの様にフランスのドイツ包囲網形成が始まる。まずは、有色人種新興列強ニッポンを最恵国待遇で釣るところから…

 

フランスの地政学を学ぶ。しばらくの間、アフリカ侵略と英仏露三国協商にフォーカスする。 今回は日仏協約。最初に、クールにザックリまとめる。 

1907年[US131]6月10日フランス第三共和政はニッポンと日仏協商を締結した。フランス第三共和政はアジアにおける自国の権益をニッポンに承認させると共に、英露協商締結への道筋をつけた。

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日仏協約(1907年[US131]6月10日)を皮切りに、英露協商(1907年[US131]8月31日締結)に向けたフランス第三共和政外交が展開される。

フランス第三共和政はロシアともイギリスとも友好関係を築けていたが、イギリスとロシアをくっつける必要があったのだ。

結果オーライであった第1次モロッコ事件(1905年[US129]3月31日)の際も、ロシアが軍事行動を取れたならば、フランス第三共和政としてはドイツ第二帝国に対して東西から挟み撃ちする形で軍事行動で応えるオプションも採り得たのである。

そして、そのためにはニッポンがキーであった。なぜなら、日露戦争はニッポンを代理としたイギリスとロシアの対戦であったので、ニッポンとロシアをくっつけるのが先決であったのだ。

Synmeは、最恵国待遇を有色人種国家ニッポンに与えるとは「フランスは太っ腹だな」という印象を最初に受けたのだけれど、何のことはない。あくまで「必要に迫られて」である。

あと、これはSynmeの想像になるのだけれど、対ドイツで戦争が勃発した時に、ニッポンに自国のチャイナ植民地およびフランス領インドシナ連邦を奪われない様に、という計算も含まれていたのではないかと思う。

欧米列強の外交は、この当時からグローバルな視点を持っていたと思う。 

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1907年[US131]6月10日ニッポンはフランス第三共和政と日仏協商を締結した。ニッポンはフランスの広東、広西、雲南における権益を認め、フランスはニッポンの満州と蒙古及び福建における権益を認めた。加えて、最恵国待遇と引換えにニッポンはフランス領インドシナ連邦を承認した。 

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文責:鵄士縦七