ニッポンの開国25:1861ロシア軍艦対馬占領事件
ニッポンの開国というかニッポンの国際外交への復帰の過程をいっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編で学ぶ。今回はロシア軍艦対馬占領事件。最初に事実だけ。
1861年[US085]ロシアの軍艦が対馬を占領したが、江戸幕府の抗議、イギリスの介入等によって約半年で退去した。
対馬はロシアにも、イギリスにも狙われていた様だ。
ロシアは前年1860年[US084]に不凍港ウラジオストクを手に入れたばかりであった。確かに次に対馬を狙うのは正しい、とSynmeは思う。ウラジオストクと対馬を押さえれば対イギリスで日本海において有利な立場に立つことができるからだ。
一方のイギリスは、インド大反乱(セポイの乱、1857年[US081]5月10日〜1859年[US083])に勝利してイギリス領インド帝国を成立させ、極東政策の舵取りが「民間」のイギリスインド会社からイギリス政府に代わっていたのがニッポンにとって幸いだったかもしれないとSynmeは考える。
そうでなければ、ロシアを追い払ったイギリスが対馬を占領していた可能性は十分にあり得るだろう。
Synmeは不勉強で詳しく知らないが、あくまでもロシアと直接交渉していた江戸幕府のスタンスも悪くなかった。公式にイギリスにロシアの排除を依頼していたら、事態は違っただろうと思う。
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1860年[US084]ロシアは清と北京条約を締結して沿海州を獲得。ロシアは沿海州南部にウラジオストクを建設し、遂に不凍港を手に入れた。
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文責:鵄士縦七