Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの開国12:1853ロシアのプチャーチン来航(黒船4隻)

ニッポンの開国というかニッポンの国際外交への復帰の過程を学ぶ。今回はロシアのプチャーチン来航。アメリカのペリー派遣を察知したロシアがすぐにリアクションした。ただし、シーボルトの影響もあり、紳士的なアプローチを採った。最初に事実だけ。

1853年[US077]8月ロシア海軍中将プチャーチンが、平和的な条約締結を求めて、黒船4隻(パルラダ、ボストーク、オリバーツァ、メンシコフ)で長崎に来航した。

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ロシア皇帝ニコライ1世は、シーボルトの進言に従ってプチャーチンを全権使節としてニッポンに派遣し平和的に交渉して条約を締結する様に命じた。

長崎に来航したのも正式なルートで交渉する姿勢を示すためであり、シーボルトの進言に従ったものだった。

1853年[US077]8月22日ロシア海軍中将プチャーチンが黒船4隻(パルラダ、ボストーク、オリバーツァ、メンシコフ)で長崎に来航した。ペリーの来航から1ヶ月と少し遅れて到着したのは偶然ではなく、ペリーの出航を知ったロシアがプチャーチンを派遣したのである。

プチャーチン長崎奉行にニコライ1世の国書を渡し、江戸幕府の回答を待ったが、クリミア戦争(ロシア・トルコ戦争、1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得たため、11月23日に長崎を離れ一旦上海に向かった。

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1853年[US077]フランスとイギリスの支援を取り付けたオスマン帝国がロシアに宣戦布告して、クリミア戦争が勃発した。ロシアはフランス第二帝政オスマン帝国、イギリス及びサルディーニャの同盟軍に敗北。1856年[US080]にパリ条約が締結され、1840年ロンドン条約の内容が再確認された。 

 

文責:鵄士縦七