Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学14:1882壬午事変/済物浦条約

ニッポンの地政学を学ぶ。第1期グレートゲーム(The Great Game)終結までを学ぶために、国際社会に復帰したニッポンの地政学を学ぶ必要があるためだ。今回は壬午事変、李氏朝鮮を巡る清とニッポンとの対立を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1882年[US106]壬午事変が勃発、清は反乱鎮圧を通じて李氏朝鮮への影響力を回復した。ニッポンは李氏朝鮮と済物浦条約を締結して公使館護衛の名目での軍隊駐留権を得るに留まった。清は将兵を駐留させた上で、李氏朝鮮と中朝商民水陸貿易章程を締結して属国支配を実質化した。

f:id:synme:20180917112400j:image

江華島事件(1875年[US099]9月20日〜22日)および日朝修好条規(1876年[US100]2月26日)署名・効力発生から約7年、壬午事変(1882年[US106]7月23日)が起こった。

壬午事変は、李氏朝鮮国王高宗の王妃閔妃を中心とする閔氏政権および日本に対する大規模な李氏朝鮮兵の反乱であった。兵士への俸給が滞ったことが反乱のきっかけとなり、李氏朝鮮政府高官、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害された。反乱軍は興宣大院君政権を復活させた。

ニッポンも清も軍艦と兵士を派遣したが、清が反乱軍を鎮圧して閔氏政権を復活させた。

ニッポンは李氏朝鮮と済物浦条約(1882年[US106]8月30日)を締結して、損害賠償と公使館護衛としてのソウルでの軍隊駐留権を得るに留まった。

一方の清は3,000名の将兵を漢城に駐留させ、中朝商民水陸貿易章程(1882年[US106]8月30日)を締結して、清の李氏朝鮮に対する宗主権を明確にし、清による属国支配を実質化した。

 

いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編から引用する。

朝鮮では、王妃閔氏の一派が保守派の大院君を退け、親日派の金玉均(1851-94)・朴泳孝(1861-1939)らを登用し、政治改革を行おうとしたので、清は大院君らをそそのかし、1882(明治15)年に保守派は王宮に乱入して政権を奪い、漢城の日本公使館を襲撃した。これを壬午事変(壬午軍乱)という。日本は軍隊を送って厳重に抗議し、済物浦条約を結んだ。

 

済物浦条約:1882年、壬午事変のあとに日朝間に締結。朝鮮の日本への損害賠償支払と謝罪使派遣、日本公使館の守備兵駐留などを決めた。

年表で読む明解!日本近現代史から引用する。

 残念なことに、1882年(明治15)の壬午政変を機に、朝鮮はふたたび清国の影響を強く受けるようになったのである。

 壬午政変は、そもそも開国派を倒し、朝鮮政府の政策を清国寄りに戻そうとした大院君が起こしたクーデターだった。しかし、暴動につけ込んで軍隊を派遣した清国は、あろうことか、その大院君を逮捕してしまった。

 つまり清国は、とにかく朝鮮を掌握できれば、きっかけなど何でもよかったということだろう。

ちなみに、壬午は干支で「みずのえうま」と読む。壬(みずのえ、じん)は十干(木/火/土/金/水 x 陽/陰)の9番目、すなわち水の陽=兄(え)である。午(うま、ご)は十二支(①ね②うし③とら④う⑤たつ⑥み⑦うま⑧ひつじ⑨さる⑩とり⑪いぬ⑫い)の7番目、すなわち馬である。

また、済物浦条約は「さいもっぽ」条約と読む。済物浦とは現在の仁川の旧称である。

--- 

synme.hatenablog.com

1875年[US099]ニッポンの軍艦雲揚と李氏朝鮮の江華島および永宗島の砲台とが交戦。1876年[US100]日朝修好条規が署名され、李氏朝鮮が独立国であること、釜山・元山・仁川を開港すること、日本の領事裁判権などが定められた。 

 

文責:鵄士縦七