ニッポンの地政学15:1884甲申政変/1885天津条約、漢城条約
ニッポンの地政学を学ぶ。第1期グレートゲーム(The Great Game)終結までを学ぶために、国際社会に復帰したニッポンの地政学を学ぶ必要があるためだ。今回は甲申政変、李氏朝鮮を巡る清とニッポンとの対立を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。
1884年[US108]甲申政変が勃発、ニッポンの助力もあって李氏朝鮮に新政府が樹立されたが、清軍の介入で3日で鎮圧された。翌1885年、日本は李氏朝鮮とは漢城条約を締結して損害賠償などを受け、清とは天津条約を締結して両軍の完全撤兵と将来の出兵時の相互照会を約した。
壬午事変(1882年[US106]7月23日)、済物浦条約(1882年[US106]8月30日)から僅か2年、甲申政変(1884年[US108]12月4日)が起こった。
甲申政変は、独立党によるクーデターでありニッポンの援助で新政権を樹立したが清軍の介入によって3日で失敗した。
ニッポンは李氏朝鮮と漢城条約(1885年[US109]1月9日)を締結して、損害賠償と日本公使館の再建を得るに留まった。
次いで、ニッポンは清と天津条約(1885年[US109]1月9日)を締結して、日清両国が李氏朝鮮から完全に撤兵すること、以後出兵する時は相互に照会することを約した。
清はフランス第三共和制と清仏戦争を戦っている最中であった。Synmeが思うに、それでも勝てないほど当時の清とニッポンの軍事力の差があったということ、一方でその背景事情があって両軍の完全撤兵が約せたこと(ニッポンは公使館の護衛兵駐留の権利を有していたのみだったので、事実上は清軍の撤兵であった)という2点がポイントである。
いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編から引用する。
変後、朝鮮では、日本にならって近代化を行おうとする金玉均・朴泳孝らの独立党と、漢城に軍隊を派遣してきた清に頼ろうとする閔氏一族の事大党との激しい対立が起こった。1884年(明治17年)、日本の援助を受けた独立党がクーデターを起こし、日本軍も清軍と衝突して、日本大使館は焼き払われ、金・朴らも日本に亡命した。これを甲申事変という。翌1885年(明治18年)、日・清両国は天津条約を締結し、朝鮮からともに撤兵することなどを約した。
漢城条約:甲申事変の翌1885年、日朝間に締結。日本への損害賠償支払い・謝罪士派遣などを決めた。
天津条約:甲申事変の翌1885年、日清間に締結。日清両軍の朝鮮からの完全撤兵、将来出兵するときは相互に通告することなどを決めた。
年表で読む明解!日本近現代史から引用する。
朝鮮が近代化を遂げなければ、日本が近代化に邁進したせっかくの努力が水の泡となりかねない。朝鮮に出現した開国派を日本が支援したのは、当然のことなのだ。
(中略)
この事件を通して日本人がひしひしと感じたのは、日本が朝鮮の真の独立を願うならば、結局は清国と戦わねばならないということだった。
朝鮮が列国を侮る清国の影響を受け、攘夷派が政権にいる状態が続けば、遅かれ早かれ、列国の植民地となってしまう。そうなれば当然、日本も危ういのだ。
ちなみに、甲申は干支で「きのえさる」と読む。甲(きのえ、こう)は十干(木/火/土/金/水 x 陽/陰)の1番目、すなわち木の陽=兄(え)である。申(さる、しん)は十二支(①ね②うし③とら④う⑤たつ⑥み⑦うま⑧ひつじ⑨さる⑩とり⑪いぬ⑫い)の9番目、すなわち猿である。
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1883年[US107]清仏戦争勃発。フランス第三共和政は清に勝利して1885年[US109]天津条約を締結、清はベトナム(=阮朝)に対する宗主権を放棄した。
文責:鵄士縦七