Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学19:1894.7.25-1895.4.17日清戦争、馬関条約

ニッポンの地政学を学ぶ。第1期グレートゲーム(The Great Game)終結までを学ぶために、国際社会に復帰したニッポンの地政学を学ぶ必要があるためだ。今回はいよいよ日清戦争を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1894年[US118]7月25日、ニッポンと清の間に日清戦争が勃発した。ニッポンが勝利し、翌1895年[US119]4月17日に馬関条約を締結。ニッポンは、清に李氏朝鮮の独立を承認させ、台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲させ、巨額の賠償金を支払わせた。 f:id:synme:20180918212345j:image

日清戦争(1894年[US118]7月25日〜1895年[US119]4月17日)はニッポンと清国の間で行われた戦争であり、主に朝鮮半島、遼東半島および黄海で両国は交戦した。

1894年[US118]1月上旬に東学党の乱が勃発し、首都ソウルを脅かされた李氏朝鮮は、5月下旬に宗主国である清国軍の救援を求めた。清国は応じて派兵し、ニッポンも天津条約に基づいて派兵した。

李氏朝鮮政府は東学党と和睦し、6月11日までに東学党の乱は沈静化した。しかし、清国とニッポンが双方の撤兵を要求しながらソウル周辺で対峙することとなった。

この間、ニッポンはイギリスとの外交交渉を続けて日英通商航海条約の締結(1894年[US118]7月16日)に成功。日清双方に対するイギリスの中立的立場を確認して清国との開戦を閣議決定し、7月23日に朝鮮王宮を事実上占拠して高宗から朝鮮独立の意志確認と清国兵追放の依頼を引き出した。

大義名分を得たニッポンは豊島沖海戦(7月25日)と成歓の戦い(7月28日〜29日)によって清国駐留部隊を駆逐してソウル周辺を勢力下に置き、8月1日清国に対して宣戦布告した。

ニッポンと清の宣戦布告を見ておこう。ニッポンは李氏朝鮮を独立国にしたく、清は李氏朝鮮は自国の属国だと言っている。対立する二国間で係争する地域(国)がある場合における一般的な主張を双方がしているということだろうとSynmeは思う。 

  • 日本「朝鮮は我が国が誘って列国に加わらせた独立の一国であるのに、清国はつねに朝鮮を自分の属国と言って内政に干渉しつづけている」
  • 清国「朝鮮はわが大清国の藩属たること二百年、毎年朝貢している国である」

戦争の経過としては、ニッポンが陸では朝鮮半島と遼東半島を制圧し、海では旅順港と威海衛を攻略して黄海と渤海の制海権を掌握すると、清国側は戦意を失い1895年[US119]3月20日から講和交渉が始まった。

ニッポンが勝利して馬関条約(1895年[US119]4月17日)が締結されて日清戦争は終結した。正式名称は日清講和条約というそうだ。清国は、李氏朝鮮に対する宗主権を放棄(李氏朝鮮の独立を承認)し、ニッポンに台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲した上、巨額の賠償金を支払うこととなった。ちなみに賠償金額は当時のニッポンの国家予算の4倍に相当したそうだ。

  • 清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)
  • 清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)
  • 清国は賠償金2億テールを日本に支払う。(第四条)
  • 割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)
  • 清国は沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。(第六条)
  • 日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)
  • 清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)
  • 清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)
  • 条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)
  • 条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。(第十一条)

いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編から引用する。

1894(明治27)年5月、第2次伊藤内閣が窮地に陥っていたとき、朝鮮の各地で甲午農民戦争(東学の乱)が発生した。6月に朝鮮の要請により清が出兵すると、日本もただちに出兵し、乱の鎮定後も撤兵せず、列強の干渉を排除する外交交渉を積極的に展開し、かえって軍隊の動員を行って開戦の準備を進めた。

解説 日本の出兵は、形式的には天津条約にもとづいていた。日本が開戦準備を進めていたころ、清では光緒帝と西太后の対立があり、意思が統一できないまま日を過ごしていた。

そして、7月19日、日本が最後通牒を発し、25日には豊島沖で戦端を開き、8月1日に宣戦布告を行った。日本軍は連戦連勝で、9月の平壌の戦い・黄海海戦で日本の勝利は確定的となった。

年表で読む明解!日本近現代史から引用する。

「李朝打倒・外国排斥」を掲げる新興宗教・東学党を中心に、農民達が朝鮮各地で反乱を起こす。これに乗じて清国が朝鮮に出兵したのが、日清戦争のそもそもの発端だったのである。

 反乱のどさくさに紛れて、清国が出兵し、朝鮮に対する影響力を動かざるものにしようとしていることは明白だった。日本としては、そのような横暴を認めるわけにはいかない。すぐさま出兵を決意し、日清戦争開戦となったのである。

 日本に義があることは、両国の宣戦布告を見れば一目瞭然である。

 日本「朝鮮は我が国が誘って列国に加わらせた独立の一国であるのに、清国はつねに朝鮮を自分の属国と言って内政に干渉しつづけている」

 清国「朝鮮はわが大清国の藩属たること二百年、毎年朝貢している国である」

 これほど決定的な相違があるにも関わらず、教科書などで指摘しているものは皆無に等しい。

 

文責:鵄士縦七