ニッポンの地政学31:1904.2.8-1905.9.5日露戦争
今回は日露戦争を学ぶ。まずニッポンの地政学の観点から考える。最初に、クールにザックリまとめる。
1904年[US128]2月8日、日露戦争勃発。ニッポンはロシアに勝利し、ポーツマス条約を締結(1905年[US129]9月5日)。両軍が満州から撤退することに合意した上、ロシアはニッポンの朝鮮半島における優越権を認め、南樺太を割譲し、南満州の租借権(南満州支線、旅順、大連)を譲渡した。
日露戦争(1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日)は、ニッポンの地政学において、非常に重要な戦争であった。
ポーツマス条約(1905年[US129]9月5日)によって、ロシアはニッポンの朝鮮半島における優越権を認め、ニッポンとロシアは軍隊を満州から撤退させる(鉄道警備隊を除く)ことに合意した。
加えて、ロシアは、南樺太(北緯50度以南)、南満州支線(旅順〜長春)及び付属する炭鉱の租借権、遼東半島南端部(旅順、大連を含む)の租借権を日本に割譲した。ニッポンとしては、ロシアを南満州から追い出してチャイナ分割の線を引き直し、南樺太を獲得することができたのだから大成果であると言うべきである。
なにより、国際的地位を高めることに成功したことが大きい。
一方で、ニッポンは賠償金を得ることはできなかった。この事により、国内の世論はポーツマス条約に対して非常に批判的であった。1905年[US129]9月5日には日比谷焼打事件が勃発している。
さて、Synmeは以下のポイントを強調したい。ニッポンのあるべき外交を考える題材として、日露戦争は貴重なのだ。勝った戦争に成功例を学び、負けた戦争を研究する事で将来に同じ過ちを起こさないように備えることが重要なわけだが、ニッポンはこれが下手であるばかりか全く知識・研究の蓄積がされていないのが現状ではないか?
- ロシアと戦争をする前に、イギリスと軍事同盟を結んでいたこと
- 開戦前から明石元二郎をスウェーデンのストックホルムに赴任させ、同地から諜報活動を展開していたこと。明石はロシア支配下にある国や地域(フィンランド、ポーランドなど)の反ロシア運動を支援し、ロシア国内の反政府勢力と接触した。実際に、血の日曜日事件(1905年[US129]1月22日)を契機にロシア第1革命が起きることとなった(〜1907年[US131]6月16日)
- 日本海海戦(1905年[US129]5月27〜28日)に勝利した後すぐに、アメリカに講和勧告を要請し、実際にセオドア・ローズベルト大統領が6月6日にロシア及びニッポンに講和勧告を行っていること
つまり、時代のスーパーパワーと事前に結べるだけの外交努力を行い、戦争開始前から諜報活動を展開し、戦争継続中から講和を視野に入れて(相対的に)信頼できる第三国の仲介で講和交渉を開始する、と言う様な事柄こそが重要なのである。強い軍隊というのは、これら外交・諜報活動なしでは最終的な勝利にはつながらないのだ。
文責:鵄士縦七
寺内正毅宛明石元二郎書翰: 付『落花流水』原稿(『大秘書』) (尚友ブックレット)
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