ニッポンの地政学39:1907.6.10日仏協約
いよいよ第1期グレートゲーム(The Great Game)終結が目前。ニッポンの地政学を学ぶ。今回は日仏協約。最初に、クールにザックリまとめる。
1907年[US131]6月10日ニッポンはフランス第三共和政と日仏協商を締結した。ニッポンはフランスの広東、広西、雲南における権益を認め、フランスはニッポンの満州と蒙古及び福建における権益を認めた。加えて、最恵国待遇と引換えにニッポンはフランス領インドシナ連邦を承認した。
英仏協商(Entente Cordiale、1904年[US128]4月8日)の締結と第2次日英同盟(1905年[US129]8月12日)の締結を受けて、1907年[US131]6月10日ニッポンはフランス第三共和政と日仏協商を締結した。
日仏協商によって、ニッポンとフランス第三共和政は互いの清における権益を承認した。具体的には、ニッポンはフランスの広東、広西、雲南における権益を認め、フランスはニッポンの満州と蒙古における権益を認めたわけである。フランス第三共和政は別途、秘密協定によってニッポンの福建における権益を認めた。
第2次日英同盟が軍事同盟化したので、日仏協商の締結は妥当な外交であろう。
Synmeは不勉強なので詳細を理解していないが、アメリカとの関係でフィリピンが問題となるのと同様に、フランス第三共和政との関係ではベトナムが問題となる。
日仏協商においては、ニッポンはフランス第三共和政がニッポンに最恵国待遇を認める代わりにフランス第三共和政のインドシナ半島支配を容認した。
この帰結として、フランスはニッポンに留学していたベトナム人留学生の引渡しをニッポンに求めた。ニッポンは引渡しは拒絶したものの、1909年[US133]までにベトナム人留学生全員を国外追放とした。Cf.東遊運動 - Wikipedia
欧米列強に比べると軍事力・経済力に劣る明治ニッポン、清と大韓帝国を除くアジア諸国との外交は難しい舵取りが必要だったのかもしれない。
文責:鵄士縦七