Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学29:1884-1885ベルリン会議(コンゴ会議)

フランスの地政学を学ぶ。しばらくの間、アフリカ侵略と英仏露三国協商にフォーカスする。 今回はベルリン会議(コンゴ会議)。最初に、クールにザックリまとめる。 

ベルリン会議(1884年[US108]11月15日〜1885年[US109]2月26日)によって、コンゴは三分割された。フランス第三共和政はフランス領コンゴを獲得し、ポルトガルはガビンダ、ベルギー王は私財としてコンゴ自由国を獲得した。

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ドイツ統一(1871年[US095]1月18日、ホーエンツォレルン朝プロイセン王国の国王ヴィルヘルム1世によるドイツ帝国皇帝戴冠)後は「戦わない」ための同盟外交がOtto von Bismarckによって展開されていた。

ベルリン会議(Kongokonferenz、1884年[US108]11月15日〜1885年[US109]2月26日)もこのBismarck外交の一環と言える。

イギリス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ベルギー、デンマーク、スペイン、アメリカ合衆国、フランス、イタリア、オランダ、ポルトガル、ロシア、スウェーデン、オスマン帝国の計14カ国が参加し、列強のコンゴ植民地化をめぐる対立の収拾が図られるとともに、列強による「アフリカ分割」の原則が確認された。

前回1884-1885ベルリン会議を学んだときは「アフリカ分割」の原則を中心に学んだに留まったので、今回はコンゴ分割の観点から学ぶ。
synme.hatenablog.com

1884年[US108]Bismarckはベルリン会議を開催、ベルギー、ドイツ、イギリス、アメリカ、フランスなど14カ国が参加してアフリカ分割の原則を確認した。

さて、まず「コンゴ」とは、14世紀からコンゴ王国(1395年〜1914年)が統治していた地域を指し、その領域は現在のガボン - Wikipediaコンゴ共和国 - Wikipediaコンゴ民主共和国 - Wikipedia(旧ザイール)、カビンダ - Wikipediaアンゴラ - Wikipediaの飛び地)に渡る広大なものだった。

次いで、ベルリン会議の結論を学ぶ。沿岸部のカビンダ - Wikipediaをポルトガル領とし、内陸のコンゴ民主共和国 - Wikipediaに相当する地域をベルギー王の私財とし、コンゴ共和国 - Wikipediaに相当する地域をフランス第三共和政(1870年[US094]9月4日〜)の勢力範囲と認めるというコンゴ分割が合意された。

で、いくつか簡単にSynmeが補足します。

実は、ベルギー(1830年12月20日独立、1839年4月19日ネーデルラント連合王国も独立承認)は欧州大陸で最も早く産業革命が始まっていた。フランス資本やロスチャイルドの資本が支えていた様だ。

そして、コンゴについては15世紀から沿岸部(ガビンダ)にポルトガルが進出していたにもかかわらず、1885年[US109]以降ベルギーの植民地帝国化を目論むベルギー国王がコンゴに進出を始め、私有地として統治していた。

当然のようにポルトガルとベルギーが対立し、軍事同盟国イギリス(英葡永久同盟、1373年〜現在)がポルトガルを支持し、経済的なつながりもあるフランスがベルギーを支持するという構図となった。それを調整するために、ベルリン会議が開かれたのだ。そして、コンゴ分割を横目に見ながら、フランス第三共和政がちゃっかりコンゴ進出を列強に認めさせたわけである。

ベルリン会議の結果が上記の3分割であった。すなわち、ポルトガルはガビンダを獲得し、ベルギー王はコンゴ自由国(現在のコンゴ民主共和国 - Wikipedia)を私財として獲得し、フランス第三共和政はフランス領コンゴ(現在のコンゴ共和国 - Wikipedia)の領有を認められた。

ちなみに、コンゴ民主共和国 - Wikipediaコンゴ共和国 - Wikipediaも、正式名称はコンゴ共和国なので極めて区別しにくいのだけれど、英語ではそれぞれの首都の名前をとってCongo-Kinshasa、Congo-Brazzavilleと呼んで区別することも多い。

更にちなみに、KinshasaとBrazzavilleはコンゴ川を挟んで隣接しており、両都市で単一の都市圏を形成している珍しい状況のようだ。

 

文責:鵄士縦七