Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

チャイナの歴史01:1911.10.10-1912.2.12辛亥革命

初めてになるが、チャイナの歴史を学ぶ。今回は辛亥革命。最初にクールにザックリまとめる。

辛亥革命(1911年[US135]10月10日〜1912年[US136]2月12日)によって清は滅び、中華民国(Republic of China, “R.O.C.”) が成立した。

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まず、簡単に辛亥革命(1911年[US135]10月10日〜1912年[US136]2月12日)を学ぶ。

辛亥革命は共和革命である。共和政とは「君主政ではない政体」を意味するので、共和革命とは、君主=国家元首である政体から君主以外が国家元首となる革命という意味である。

辛亥革命とは、大清帝国(1616年[bUS160]2月17日後金成立〜1636年[bUS140]5月15日清に改称〜1912年[US136]2月12日滅亡)が滅亡して、中華民国(Republic of China, “R.O.C.”) が成立した革命であった。

すなわち、俗に言うラストエンペラー宣統帝(愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、Aisin Gioro Pu Yi)、後の満州国皇帝(在位1934年[US158]3月1日〜1945年[US169]8月18日))という君主(大清帝国皇帝)が廃され、孫文(孫逸仙、Sun Yat-sen、中華民国(臨時政府)初代臨時大総統(在位1912年[US136]1月1日〜4月1日))ないし袁世凱(Yuan Shikai、中華民国(臨時政府)第2代臨時大総統(在位1912年[US136]3月10日〜1913年[US137]10月10日))を国家元首とした革命であったということである。

Synmeが不勉強なので申し訳ないが、孫文(Sun Yat-sen)を中心とする共和革命勢力が清を崩壊寸前まで追い込んだものの、清の軍人である袁世凱(Yuzan Shikai)がうまく立ち回って愛新覚羅溥儀(Aishin Gioro Pu Yi)を退位させ、その代わりに大総統の地位を孫文から奪った、という「画竜点睛を欠く」共和革命だった、と言える。

実際、第二革命、第三革命とチャイナの共和革命はしばらく続くことになる。

 

さて、辛亥革命(1911年[US135]10月10日〜1912年[US136]2月12日)のニッポンにとっての意義としては、2つの点が重要である。

第1に、イギリスとの関係。これまで学んできた通り、当時のニッポンにとってイギリスが最重要の軍事同盟国であった。この辛亥革命については、ニッポンはあくまで孫文ら共和革命勢力を支援する立場であった一方、イギリスは清との妥協を模索する袁世凱寄りの立場を採った。

ただでさえ共通の敵ロシアを失って不安定化しつつあったニッポンとイギリスの関係に、もう一点追加的な曇りが生じたと言うことである。もう少しSynmeが勉強しないといけないのだが、どうもニッポンにとってのチャイナは、植民地分割/チャイナ民主化・近代化という複合・応用問題であった様で、非常に難しい外交を迫られたという印象を抱かざるを得ない。

Synmeの戯言だけれど、アメリカもロシアもひきつづき脅威だったわけで、イギリスとの軍事同盟を最優先するというシンプルな外交方針を貫くべきだったのではないかと考える。

現代まで続くニッポン人の特徴だと思うのだけれど、外国人ないし外国の意向について妄想あるいは都合の良い期待ばかりして、能動的な働きかけをせず、相手の動向を見て自分の行動を決めようとするところがないか?

辛亥革命の場合、例えば「ニッポンは極東の安定と平和を最重要視して、イギリスと協調しながら革命の趨勢を見守る」とか言えばいいのだ。同じアジア人だからチャイナの民主化・近代化を後押ししたい云々という議論は、大局としての日英同盟の重要性に劣後するのだ。それに、イギリスのチャイナ権益を守り、かつ、孫文を応援する、位の芸はこなしてほしいものである。子供じゃないんだから。

なぜわざわざこんなことを書いているかというと、「覇権国と(軍事)同盟関係にありながら、その信任を維持する外交努力・工夫に欠ける」という状態が現代ニッポンと類似している気がしているからである…

ともかく、Synmeは不勉強なので、もっと勉強します。

 

第2に、ロシアとの関係。これは次回に学びます。

 

文責:鵄士縦七