Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ドイツの地政学24:1885.3.3ドイツ領東アフリカの成立

19世紀後半、アフリカの角(Horn of Africa) 周辺で列強の動きが活発になっている所を学んできた。ついに、東アフリカにもドイツ第二帝国が参入してくる。

今回はドイツの地政学として、ドイツ領東アフリカの成立を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。  

1885年[US109]3月3日、ベルリン会議終了後まもなく、ドイツ第二帝国は現在のタンガニーカ、ブルンジ、ルワンダの地域にドイツ領東アフリカを成立させた。 

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ベルリン会議(Kongokonferenz、1884年[US108]11月15日〜1885年[US109]2月26日)が終了した翌週に、ドイツ第二帝国は遂に東アフリカにも進出した。

アフリカの角と言うにはやや南寄りかもしれないが、国際社会において重要なのはプレゼンスなので、ドイツ第二帝国としては東アフリカに植民地を築けた意義は大きかったに違いない。

タンガニーカというのは、現在のタンザニア連合共和国(タンザニア - Wikipedia)の大陸部の呼称である。

これは島嶼部のザンジバル(ザンジバル - Wikipedia)と区別するための呼称でもあり、ザンジバルがオマーン帝国(アラビア半島沿岸地域、東アフリカ沿岸地域、ザンジバル(ウングジャ島(ザンジバル島)、ペンバ島)及びマダガスカル島北部沿岸地域にまたがる海洋国家。オマーン - Wikipediaブーサイード朝 - Wikipedia)の中心であり、タンガニーカの沿岸部もかつてはオスマン帝国の領土であったため、タンザニアはタンガニーカとザンジバルの「連合」共和国と表現される様だ。 

ともかく、1884年[US108]にドイツ人探検家がザンジバルからタンガニーカ内陸部に入り、原住民の首長らとドイツ第二帝国の保護国となる条約を結んだ。これを根拠に、ベルリン会議直後にドイツ領東アフリカの成立を宣言したわけだ。

以下のWikipediaを参照しました。 

 

文責:鵄士縦七