ドイツの地政学25:1885.5.27ドイツ領ヴィトゥの成立
19世紀後半、アフリカの角(Horn of Africa) 周辺で列強の動きが活発になっている所を学んできた。ついに、東アフリカにもドイツ第二帝国が参入してくる。
今回はドイツの地政学として、ドイツ領ヴィトゥの成立を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。
1885年[US109]5月27日、ドイツ第二帝国は現在のケニア沿岸にドイツ領ヴィトゥを成立させた。
ベルリン会議(Kongokonferenz、1884年[US108]11月15日〜1885年[US109]2月26日)、ドイツ領東アフリカの成立(1885年[US109]3月3日)の勢いに乗って、1885年[US109]5月27日ドイツ第二帝国は現在のケニア共和国(ケニア - Wikipedia)沿岸にドイツ領ヴィトゥを成立させた。
Lamu港の内陸のWituという街を中心とする沿岸地域が、ヴィトゥ(Wituland - Wikipedia)と呼ばれている。
このヴィトゥという地域には1858年[US082]頃から、Pate島(Pate Island - Wikipedia)を統治していた部族が移り住んで、オマーン帝国(アラビア半島沿岸地域、東アフリカ沿岸地域、ザンジバル(ウングジャ島(ザンジバル島)、ペンバ島)及びマダガスカル島北部沿岸地域にまたがる海洋国家。オマーン - Wikipedia、ブーサイード朝 - Wikipedia)の奴隷貿易から逃れた奴隷たちを受け入れ共生していたそうだ。
そして、オスマン帝国の中心地ザンジバル(ザンジバル - Wikipedia)は目と鼻の先であり、ヴィトゥとオマーン帝国は敵対関係にあった。更に、オスマン帝国はイギリスの保護国であった。
そこにドイツ第二帝国のドイツ領東アフリカが出現したのである。ヴィトゥの首長は、激化しつつあったオマーン帝国によるヴィトゥの奴隷化を目論む襲撃に対抗するため、ドイツ第二帝国の保護国となることを望んだのだ。
ドイツ第二帝国は、この要請を受け入れ、ドイツ領ヴィトゥの成立を宣言したわけだ。
以下のWikipediaを参照しました。
文責:鵄士縦七
文責:鵄士縦七