Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

モンゴルの歴史02:1915.5.25キャフタ条約の締結

モンゴルの歴史を学ぶ。今回はキャフタ条約。最初にクールにザックリまとめる。

1915年[US139]5月25日ロシアと中華民国とモンゴルはキャフタ条約を締結し、モンゴルを中華民国の主権の下で実質的に独立した統治体として認めた。 

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ここで言うキャフタ条約は Treaty of Kyakhta (1915) - Wikipediaのことである。

チベット・モンゴル相互承認条約(1913年[US137]1月11日)によりチベットとモンゴルがそれぞれの独立自治権と統治権を主張すると、イギリスとロシアは中華民国における自国の権益への影響を恐れて、中華民国の面子を保つ「落とし所」を求めた。

言うまでもないが、欧米列強にとって非欧米の一民族の独立・自治は自国の植民地の保持に劣後する外交要素でしかないと言うことだ。 

すなわち「独立国家」として国際的な承認を与えるのではなく、あくまで中華民国を協議に加えた上で、チャイナ主権下での実質的自治権を認めると言う手法である。オスマン帝国においても使用されている手法である。具体的には、チベットについてはイギリスが、モンゴルについてはロシアが担当する。 

1915年[US139]5月25日イギリスとチベットはシムラ条約を締結し、モンゴルを中華民国の主権の下で実質的に独立した統治体として認めた。チベットとは異なり、中華民国もちゃんと署名した。三者間の合意である。

「ロシアの方がちゃんとしていた」と言う見方もできるだろうとSynmeは思う。

しかし、モンゴルがあくまでロシアとチャイナにモンゴルを加えた三者関係であるのに対して、チベットはイギリス(=イギリス領インド帝国)とロシアとチャイナにチベットを加えた四者関係と言う地政学的に複雑な位置にあった、と言う点も覚えていて良いとSynmeは思う。

ともかく、辛亥革命を契機に民族独立に向かったモンゴルとチベットだが、この頃からそれぞれの進む道は少しずつ離れて行くことになる。

 

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文責:鵄士縦七