2019-01-01から1年間の記事一覧
【再掲にあたっての備忘録】バルカン半島でセルビアvsオーストリアという火種が燻り、それぞれを支持する形でロシア・フランスvsロシアという対立の図式が鮮明化していく中で、モロッコをめぐるフランスとドイツの対立も第2ラウンドを迎えた。 このような事…
今回はオーストリアの地政学として、ボスニア危機を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 1908年[US132]10月6日オーストリア=ハンガリー二重帝国はボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。ボスポラス海峡及びダーダネルス海峡の通航権をイギリスとフラン…
今回はオーストリアの地政学として、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 1908年[US132]10月6日オーストリア=ハンガリー二重帝国は、ボスポラス海峡及びダーダネルス海峡の通航権を保障してロシアの承認を得て、ボスニ…
【再掲にあたっての備忘録】フランスは、1891年[US115]ロシア、1904年イギリス、そして1907年ニッポンと組んで、隣の新興列強ドイツ第二帝国を列強間で孤立化させることに成功した。素晴らしい外交である。 加えて、1902年イタリアとも秘密同盟を結んでおり…
【再掲にあたっての備忘録】ロシアは一時的とは言え(ロシアの締結する和平条約や友好条約はすべからく一時的であることに留意)イギリスと和解することになり、バルカン半島に集中できる機会が久し振りに訪れたことになる。 ようやく第1期グレートゲーム(T…
【再掲にあたっての備忘録】イギリスは光栄ある孤立(Splendid Isolation)を破棄して同盟外交を展開し、1902年[US126]ニッポン、1904年[US128]フランス、そして1907年[US131]ロシアと組んで、飛ぶ鳥を落とす勢いの新興列強ドイツ第二帝国にロックオンしたわ…
【再掲にあたっての備忘録】ニッポンとロシアの友好関係樹立は、フランスとイギリスの思惑でもあった。日露戦争で賠償金を取れず財政難であったニッポンに対して、フランス第三共和政の主導でフランス第三共和政およびイギリスが国債の引受をしているのだ。 …
【再掲にあたっての備忘録】1905年[US129]9月5日に日露戦争(1904年[US128]2月8日〜)に敗北したものの、1907年[US131]6月16日にロシア第1革命(1905年[US129]1月22日〜)を何とか終結させて帝政を維持したロシアのロマノフ家は、同1907年[US131]7月30日に有…
【再掲にあたっての備忘録】ロシア第1革命(1905年[US129]1月22日〜1907年[US131]6月16日)は、結局は失敗に終わり、ロシア帝政が維持されることとなった。 ここからは、フランス第三共和政がロシアの手を取り足を取り、ロシア帝政の外交戦略を再構築してあ…
【再掲にあたっての備忘録】ロシア第1革命(1905年[US129]1月22日〜1907年[US131]6月16日)が終わり、ロシア帝政が維持されることを見越したかの様にフランスのドイツ包囲網形成が始まる。まずは、有色人種新興列強ニッポンを最恵国待遇で釣るところから… フ…
【再掲にあたっての備忘録】ロシアのまさかの敗戦… ドイツ第二帝国にとって福音に思えたこのイベントが、フランス第三共和政の驚異的な外交で、ドイツ第二帝国包囲網に繋がっていく過程は既に学んだ。 まあ、次回以降でサラッと復習しますけれど。 今回も日…
【再掲にあたっての備忘録】日露戦争(1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日)が集結するのを待たず、ニッポンの日本海海戦(1905年[US129]5月27-28日 )勝利を見て、イギリスは日英同盟を軍事同盟に引き上げた。 日露戦争に関連して、イギリスの地政学…
今回はドイツの地政学として、第1次モロッコ事件を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 1905年[US129]3月31日ドイツ第二帝国皇帝Wilhelm IIがモロッコのタンジールを突如訪問してフランス第三共和政によるモロッコ支配を阻止しようとした(第1次モロッ…
【再掲にあたっての備忘録】1904年[US128]2月8日に日露戦争(〜1905年[US129]9月5日)が勃発し、1904年[US128]4月8日に英仏協商が締結されて、1905年[US129]1月22日に血の日曜日事件が起きてロシア第1革命が始まった。 フランス第三共和政は、ロシアを頼みと…
【再掲にあたっての備忘録】1904年[US128]2月8日に日露戦争(〜1905年[US129]9月5日)が勃発し、1904年[US128]4月8日に英仏協商が締結されて、1905年[US129]1月22日に血の日曜日事件が起きてロシア第1革命が始まった。 英仏協商でフランス第三共和政のモロッ…
【再掲にあたっての備忘録】フランスにとっては、色々と重要な成果を得た外交的快挙だったのかもしれない。 第1に、ドイツと対立するモロッコ権益をイギリスに承認させたことが大きい。 第2に、フランス第三共和政にとっての重要な植民地であるフランス領イ…
【再掲にあたっての備忘録】1902年[US126]1月30日イギリスとニッポンが第1次日英同盟を締結した。日露戦争(1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日)が勃発して2ヶ月、イギリスはフランス第三共和政と英仏協商(Entente Cordiale)を締結した。 日露戦争…
【再掲にあたっての備忘録】現在Synmeが学んでいる第一次世界大戦前の欧州列強の地政学の中の位置付けとしては、遂にニッポンを代理としたイギリスとロシアが激突した、という意義が大きい。 「仮に」考えると、日露戦争でロシアが勝利していた場合、ロシア…
ドイツの3B政策について簡単に学んでおく。今回は鉄道と運河の地政学として、バグダード鉄道の着工について学ぶ。最初にクールにザックリ学ぶ。 1903年[US127]ドイツ第二帝国はペルシア湾へのアクセスを得るため、イスタンブールからバグダードを経由しクウ…
イタリアの地政学として、仏伊協商を学ぶ。アフリカ分割が進む中でエチオピアに敗れたイタリアが、三国同盟はそのままにフランスに接近する。最初に、クールにザックリまとめる。 1902年[US126]イタリア王国は秘密裏にフランス第三共和政と仏伊協商を締結し…
【再掲にあたっての備忘録】約3年にもわたった泥沼の戦いに勝利を収め、イギリスはホッと一息をつく。 当時のイギリスの植民地経営上の懸念は、次に、チャイナ分割においてロシアが決定的な優位を占めることをニッポンを使って阻止できるか否か、に移って行…
【再掲にあたっての備忘録】第2次ボーア戦争(1899年[US123]10月11日〜1902年[US126]5月31日)のゲリラ戦に苦しんでいたイギリスが、遂に光栄ある孤立(Splendid Isolation)を破棄して同盟外交を始めた。 同盟相手はニッポンである。直接の目的は、南アフリ…
【再掲にあたっての備忘録】アフリカ分割が進む中、ドイツ第二帝国の植民地拡大はあれど、エジプト、ケニア及びザンジバルの植民地化、ローデシアの植民地化着手、そしてスーダンの共同統治開始と順調に見えたイギリスであった。 一方、ドイツ第二帝国やイタ…
【再掲にあたっての備忘録】イギリスとしては、エチオピア帝国に隣接するスーダンは単独統治するよりもエジプトと共同統治する方が陸軍をエジプトに任せることができて良かったのではないか? なにはともあれ、イギリスは20年弱をかけてスーダンのイギリスと…
【再掲にあたっての備忘録】スーダンでマフディー戦争(1881年[US105]〜1898年[US122])を戦っていたイギリス、1885年[US109]1月25日エジプト・イギリス軍がハルツームでマフディー軍に敗れ、1898年[US122]までの13年間マフディー国家(Mahdist Sudan)がス…
【再掲にあたっての備忘録】スーダンでマフディー戦争(1881年[US105]〜1898年[US122])を戦っていたイギリス、1885年[US109]1月25日エジプト・イギリス軍がハルツームでマフディー軍に敗れ、1898年[US122]までの13年間マフディー国家(Mahdist Sudan)がス…
今回はイギリスの地政学として、イギリス・ザンジバル戦争を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 1896年[US120]8月27日イギリス・ザンジバル戦争が勃発。38分でイギリスがザンジバル保護国に勝利し、イギリスにとって都合の良いスルタンが即位すること…
【再掲にあたっての備忘録】19世紀後半、「間接的」かつ「複合的」な状況変化により、マダガスカルのメリナ王国はフランス第三共和政による植民地化を免れられなかった。 メリナ王国を江戸幕府と置き換えれば、ニッポンでも起こり得た事態である。 まず、186…
19世紀後半、アフリカの角(Horn of Africa) 周辺で列強の動きが活発になる。今回はイタリアの地政学として、第1次エチオピア戦争を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 イタリア王国は第1次エチオピア戦争(1894年[US118]12月15日〜1896年[US120]10月2…
19世紀後半、アフリカの角(Horn of Africa) 周辺で列強の動きが活発になる一方、イギリスは南アフリカから徐々に北上を続けていた。今回は、ローデシアの植民地化を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 1891年[US115]イギリスは、ポルトガルを排除し、…